音楽評論家・城所孝吉氏の連載、第22回は、前回に続いて「オペラ《椿姫》ゼミナール」の完結篇です。この「ゼミナール」は、旧「レコード芸術」の好評企画『喜多尾ゼミナール』を、城所流ニューアレンジで復活、一つの作品を極めていきます。前回は《椿姫》のいわば入門篇として概要、見方を中心に話し合いましたが、今回は「さらにその先」を考察していきます。
※登場人物=K:音楽評論家、A:オペラ・ファンの学生(男性)、B:オペラ・ファンの学生(女性)
世俗的ミサとしての《椿姫》
B:前回のゼミナールの最後、ドイツ語で「同情」を意味する “Mitleid” という言葉が出てきましたが、「同情」といい「浄化」といい、さっきからずっと気になっているんですけど、これってキリストの受難とむちゃくちゃ似てませんか。だいたいパッションって、《マタイ受難曲》(Mathäuspassion)みたいに、本来その意味で使われた言葉でしょ?
K:ご名答! よくぞ言ってくれました。実はこれこそが、今日の話の一番大事な点なんだ。どうしてキリストの受難と似ているのか、説明してくれますか?
B:キリスト教では、イエスの死は象徴的な意味を持っており、人間のすべての罪を背負って死んだ、と考えられています。生は苦しみと悲しみに満ち、人間は罪に汚れた哀れな存在だけれども、救世主はその惨めな生を憐れみます。そして彼自身は無垢無実であるにもかかわらず、人間への愛ゆえにその苦悩と罪をひとりで担い、十字架に掛けられて死ぬわけです。人間は彼が「自分の代わりに死んでくれた」ことによって、擬似的に苦しみから解放され、生きる力を得ます。
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