【連載】トーキョー・モデュレーション 第21回/沼野雄司

トーキョー・モデュレーション連載
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絶滅した鳥が不完全に鳴く

私はこの写真から、それはそうなるだろうという未来と、それはかつてあったという過去を同時に読み取る。――ロラン・バルト『明るい部屋』

 窮地に陥ったときでも、絶望的に悲しいときでも、ハードボイルド小説の主人公たちは平気でふざけたジョークを口にする。10代から20代にかけてこうした小説を大量に摂取したわたしはひどく影響を受けて、順調に「いつもふざける人」へと成長していった。しかし一方で、あの主人公たちのように誰にも見せず、誰にも告げないまま、とてつもない心や身体の痛みに耐える術を学ぶことは残念ながらできなかった。なにしろ、そういうシーンは本には書いていないのだ(!)。へらへらとふざけてばかりいる人と思われがちなわたしだが、その背景には、こんな事情が横たわっている。
 それはともかく、ハードボイルド小説の本質は、失われたものを思う孤独にある、と言ってまちがいはないだろう。彼らは喪失の孤独のなかで、それに押しつぶされないよう、あえてへらへらと軽口を叩く。そして、芸術の本質的な主題もまた、失われたものにあるというのが年来のわたしの主張だ。失われたものへの悲しみを受け流す「へらへら」こそが、芸術作品にほかならないのではないか。

『明るい部屋』は、晩年のロラン・バルトが亡き母の写真を手がかりに、記憶と喪失の関係を考察した写真論である(バルトはきわめつけのママっ子だ)。写真を見るときにわたしたちをとらえるのは「それはかつてあった」という感情であり、だからこそ同時に、それがもはや失われていることをはっきり認識するのだと、彼は述べる。写真というのは、さまざまなものを保存してくれる温かい存在のようでありながら、同時に、それがもはやここにはないことを示し、喪失を現在形のまま永遠に留め続ける残酷な装置でもあるわけだ。
 バルトはさらに、ぽろりと(本当に「ぽろり」という感じで)、同じことがシューマンの《暁の歌》作品133の第1曲にも言えるという。1853年10月、シューマンの「最晩年」に書かれたこのピアノ小品は、悲しみをことさらに訴える曲ではない。穏やかなテンポのうえで、コラールのように静謐に、何事かが推移してゆく音楽。
 バルトは、死刑囚ルイス・ペインの写真について論じながら、「彼はやがて死ぬことになる/すでに死んだ」という二重性について語るのだが、シューマンの《暁の歌》にもまた、「彼はやがて死ぬことになる/すでに死んだ」という二重性が刻印されている(正確にいえば、刻印されているというよりは、この曲を書いた後、ほどなくして作曲者の精神が破滅に向かったことをわれわれが知っている、ということなのだが)。実際、作品のタイトル「暁」は朝の光をあらわす語だが、曲を聴けば、それがほとんど残照のように感じられることに誰もが気づくはずだ。
 ちなみに、この《暁の歌》という不思議な楽曲には、ほかにもヘルダーリンとの関係など、さまざまなことを論じる契機が豊富に潜んでいる。だが、そうしたロマン派事情に深入りしてゆくと偶数月の「プレルーディウム」になってしまうので、この辺りで現代の音楽へと転調(モデュレーション)していこう。

ロラン・バルト『明るい部屋 写真についての覚書』(みすず書房) 
彼の母がまだ子供の頃の姿をとらえた「温室の写真」をめぐるエッセイ。それにしても晩年のバルト(この本や『偶景』など)のエッセイは、それ自体が「喪失感」満載。一行一行から、ぽろぽろとあらゆるものが失われてゆく。

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