

▲①クナッパーツブッシュ=ミュンヘン・フィルによるCD2枚分の管弦楽曲集〈1962.11〉の第1集[ウェストミンスター(S)UCCW9061]。一方ウィーン・フィルとのデッカ録音の方では、フラグスタートやニルソン,ジョージ・ロンドンとの共演が聴ける ②フルトヴェングラー=ルツェルン祝祭管,ウィーン・フィルの管弦楽曲集〈1947.8~1950.1〉[Testament(M)SBT1141]。フルトヴェングラーの全曲録音は《トリスタンとイゾルデ》《ワルキューレ》(以上スタジオ・セッション),《ニーベルングの指環》全曲(2種),《ニュルンベルクのマイスタージンガー》(バイロイト・ライヴ)が遺されている
ワーグナーの録音史には、《ニーベルングの指環》のような巨大な楽劇の全曲盤とは別に、独自の「管弦楽曲集」の世界がある。数多ある名曲アルバム的な「オペラ序曲・前奏曲集」とは確実に一線を画し、フルトヴェングラーやクナッパーツブッシュ、あるいはクレンペラー、セルといった往年の巨匠たちが、皆それぞれに「超」名盤を遺しているのも忘れがたい。ここでは、そうした「ワーグナー管弦楽曲集」の歴史を、増田良介氏のナビゲートで辿る。
文=増田 良介(音楽評論)
オペラ全曲盤とは異なる「管弦楽曲集」の世界
オペラの管弦楽曲集のレコードは昔からたくさんあるのだが、それらは、レコードを作品として見る場合、オペラの全曲盤、あるいは交響曲や協奏曲のようなものと比べて下に見られてはいないだろうか。オペラというものは全曲を聴くのが本来あるべき鑑賞の在り方だから、序曲や前奏曲だけ聴くというのは、その仕方のない代用にすぎないという考え方だ。
確かにそういう面はあるだろう。昔はレコードも高かったし、そもそもオペラは長い。序曲だけならいいが全曲はちょっと忍耐が必要という作品もある。管弦楽曲集の第一の需要がそういうところにあったのは否定できない。では結局、オペラの序曲は、一口サイズの試食用オペラにすぎないのだろうか?
そうでない場合もあると思う。特にワーグナーの場合、オペラの一部として聴く場合と、単独で聴く場合で、その印象が違ってくる曲が多いように思う。例えば楽劇《ニュルンベルクのマイスタージンガー》前奏曲を、単独で聴くのと、楽劇の導入として聴くのは、同じ体験ではないだろう。約10分間、対位法を駆使した濃密な音楽が続いたあと、輝かしい終結部がやってくるこの曲だが、オペラ全曲の場合、そのあとに4時間を超えるドラマが続く。壮麗な終結部を本当に終結部として聴くには、前奏曲を単独で聴かなければならない。
《ワルキューレの騎行》もそうだ。これだけで聴くと、勇ましい、実に気分の上がる音楽だ。しかしこれは《ワルキューレ》第3幕の序奏だ。オペラでは、最初こそ8人のワルキューレたちが威勢よく飛び回っているが、ブリュンヒルデが遅れて加わると、さっきの高揚感はすっかり消えてしまう。つまり、この勇ましさは後に続くドラマの前振りに過ぎないのだ。だとすると、一面の花々と一本だけ折り取った花の美が違うごとく、全曲の一部としての美とは違った、単独の作品としての美というものがあると考えてもいいのではないか。
……ということで、オペラの管弦楽曲集をちょっと擁護してみた。実際、ワーグナーの序曲や前奏曲は充実した名曲揃いで、それだけ取り出して聴いても格別の感動のある作品ばかりで、名盤も多い。ここでは、名指揮者たちが残してくれたワーグナーの管弦楽曲集を、ほんの一部ではあるが振り返ってみよう。


▲③カラヤン=ベルリン・フィル,CD2枚分の管弦楽曲集を収めたSACD〈1974.9〉[ワーナー(S)WPGS10040]カラヤンの全曲セッション録音は《ニュルンベルクのマイスタージンガー》のみドレスデン国立管,他はすべて(さまよえるオランダ人,ローエングリン,トリスタンとイゾルデ,ニーベルングの指環,パルジファル)ベルリン・フィル ④ベーム=ウィーン・フィルの管弦楽曲集〈1978.11~1980.6〉[DG/タワーレコード(S)PROC2127(2枚組)]SACDハイブリッド。ベームが遺したワーグナー全曲録音(さまよえるオランダ人,トリスタンとイゾルデ,ニュルンベルクのマイスタージンガー,ニーベルングの指環)はすべてバイロイト祝祭ライヴ
ピットを出た名オペラ指揮者の別の顔
ワーグナーのオペラの全曲録音をたくさん残している指揮者には、カール・ベーム、ヘルベルト・フォン・カラヤン、ゲオルク・ショルティ、ジェイムズ・レヴァイン、ダニエル・バレンボイム、クリスティアン・ティーレマンといった人たちがいる。誰もが認める最高のワーグナー指揮者たちだ。おもしろいことに、彼らはもれなく、ワーグナーの管弦楽曲集を、全曲盤とは別に録音している。全曲があるから管弦楽曲集はいらないとはならなかった。当代きってのワーグナー指揮者による、全曲よりも手軽に聴ける管弦楽曲集が欲しいというシンプルな需要だ。もちろん演奏の質はどれも高い。演奏の内容も、全曲録音と序曲だけの録音で大きく変わることはない。
彼らよりも前の世代であるアルトゥーロ・トスカニーニやヴィルヘルム・フルトヴェングラーの録音も位置づけとしては似ている。彼らは(当時のたいていの指揮者はそうだったが)もともとオペラ劇場でも活躍していたが、フルトヴェングラーの《トリスタン》や《ワルキューレ》、あるいはいくつかのライヴ録音を除き、全曲録音はあまりできなかった。彼らが残してくれた管弦楽曲の録音は、聴くすべのないトスカニーニの《指環》やフルトヴェングラーの《パルジファル》を想像させてくれる。
ハンス・クナッパーツブッシュもかつてはそうだったのだが、現在では多くの全曲ライヴ録音が発売されて(《パルジファル》だけで10種以上ある)、事情が変わってきた。とはいえ、良好なステレオ録音で彼の巨大なワーグナーが聴ける、ウェストミンスターやデッカの録音は、なお価値がある。




▲⑤トスカニーニ=NBC響の管弦楽曲集〈1946.3~1953.11〉[Testament(M)SBT1382]トスカニーニ編による《パルジファル》交響的合成が聴きもの ⑥ショルティ=ウィーン・フィル,シカゴ響の管弦楽曲集〈1972.5~1977.5,1982.10〉[デッカ/タワーレコード(S)PROC2115]1958年~65年に《ニーベルングの指環》4作の全曲録音を果たしたウィーン・フィルとの20年ぶりの《指環》抜粋を含む2枚組 ⑦バレンボイム=シカゴ響〈1991.10〉[テルデック(D)WPCS22143]当録音のほぼ同時期にバレンボイムはバイロイト祝祭で《指環》全曲セッション録音を行なっている ⑧ティーレマン=ベルリン・ドイツ・オペラ管の管弦楽曲集〈2004.11(L)〉[Orfeo(D)C879132]当録音の後2006~2010年バイロイト祝祭で《指環》全曲を指揮
巨匠たちの晩年の独自路線
さて、それではブルーノ・ワルター、オットー・クレンペラー、フリッツ・ライナー、ジョージ・セルといった巨匠たちはどうか。全曲のセッション録音は、クレンペラーの《オランダ人》ぐらいしかないが、彼らも、若い頃はオペラ劇場で活躍した指揮者たちだ。しかし録音を聴く場合、上に挙げたような指揮者たちとはやや事情が違う。一般的によく聴かれているのは、彼らが晩年に残してくれたステレオ録音だが、ベートーヴェンでもブラームスでもマーラーでも、彼らの晩年の演奏スタイルは、その何十年か前、彼らが劇場で活躍していた時代のそれとはだいぶ違う。
だとすると、彼らが年を取ってからアメリカやイギリスで録音したワーグナー管弦楽曲集は、彼らがドイツの劇場で振っていたオペラとは別ものと考えるべきだ。彼らの振る《トリスタンとイゾルデ》前奏曲と愛の死を聴いても、オペラ全曲を想像するよすがにはならない。しかし、だから価値がないと思ってしまうなら、それは最初に書いたような偏見に囚われているということになるだろう。演奏は、温かなワルター、剛毅なクレンペラー、厳しいライナー、室内楽的なセルと、それぞれの個性が存分に発揮された名演ばかりだが、おそらく劇場で、彼らがこのスタイルを貫くことは難しかったはずだからだ。
彼らと似たような時代に活躍したにもかかわらず、そもそもオペラをほとんど演奏しなかった指揮者たちもいた。ウィレム・メンゲルベルク、エフゲニー・ムラヴィンスキー、セルジウ・チェリビダッケといった人たちだ。しかし彼らも《トリスタンとイゾルデ》の〈前奏曲と愛の死〉、あるいは《タンホイザー》序曲などは振っていて、我々はその録音を(レコード用の録音ではないとしても)聴くことができる。彼らはみな、オーケストラを細部まで完璧にコントロールすることにこだわった指揮者だ。そのこだわりは、彼らがオペラを振らなかった理由でもあろうが、同時に、彼らが、歌劇場のピットでは不可能なレヴェルの緻密な演奏をすることができた理由でもある。




▲⑨ワルター=コロンビア響の管弦楽曲集〈1959.2~1961.3〉[ソニー・クラシカル(S)SICC10358]同時期に録音された《ジークフリート牧歌》も名演 ⑩クレンペラー=フィルハーモニア管の管弦楽曲集〈1960~61〉[ワーナー/タワーレコード(S)TDSA134(2枚組)]クレンペラーには《オランダ人》全曲セッション録音があるが,その他《ワルキューレ》も計画されたが第1幕と第3幕フィナーレのみが遺された ⑪セル=クリーヴランド管の管弦楽曲集〈1962.1,1968.10〉[ソニー・クラシカル(S)SICC1651]2枚組SACDハイブリッド ⑫ムラヴィンスキー=レニングラード・フィルの管弦楽曲集〈1973.3~1982.1〉[ビクター(M/S)NCS88025]《タンホイザー》序曲のリハーサル音源を含む
「交響的合成」もしくは接続編曲「大絵巻」
レオポルド・ストコフスキーも、オペラはめったに振らなかった。しかしワーグナーについては、彼ならではのユニークな試みを行なっている。彼は、ワーグナーの序曲や前奏曲を普通に録音することもしているが、それとは別にSymphonic Synthesis、つまり「交響的合成」(変な訳だが)として、《ワルキューレ》や《トリスタン》や《パルジファル》のいくつかの場面を接続して、約20分~40分の、交響詩のようなものを作り上げた。なにごとも先入観にとらわれないストコフスキーのアレンジは個性的なので、ワーグナー好きならきっと楽しめるはずだ。
ストコフスキーと似た試みは、その後、エーリヒ・ラインスドルフなどもやっているが、ロリン・マゼールが、1987年に自らの編曲で『言葉のないリング』(テラーク)を出したのは画期的だった。これは《指環》全4作を、オーケストラのみによる1時間を超える大絵巻にまとめたもので、ストコフスキーの精神を受け継いだ試みといえる。これは当時大きな話題となり(批判の声も多かったと記憶している)、彼は1990年に交響組曲《タンホイザー》も発表している。
マゼールと似た路線では、オランダの作曲家ヘンク・デ・フリーヘルによる一連の作品がある。フリーヘルは《指環》(1991)を皮切りに、《パルジファル》(1993)、《トリスタン》(1994)、《マイスタージンガー》(2005)の大規模な接続曲を発表しており、これらはネーメ・ヤルヴィなどの指揮者が録音するなど、レパートリーとして定着しつつある。
最後にもうひとつ重要な動きについて書いておこう。ピリオド奏法による演奏だ。1970年代から力を増してきたピリオド奏法の波は、ワーグナーにも届いた。先駆となったのは、1994年にロジャー・ノリントンがロンドン・クラシカル・プレイヤーズを指揮した管弦楽曲集だ。ノリントンの「ピュア・トーン」と呼ばれる、ノン・ヴィブラートを徹底した奏法によるワーグナーは、透明で軽く、従来のワーグナーのイメージとは真っ向から対立するものだった。当時は賛否両論で、どちらかと言えば否の声のほうが大きかったように思う。だがその後、ピリオド奏法による演奏を支持する人が増えていき、今世紀に入ると、サイモン・ラトル、ブルーノ・ヴァイル、ケント・ナガノといった指揮者によって、ピリオド奏法によるワーグナーのオペラ全曲上演も行なわれていることは、ご存じの方も多いだろう。




▲⑬ストコフスキー=シンフォニー・オブ・ジ・エア,ロイヤル・フィルの管弦楽曲集第1集〈1960.12~1973.10〉[RCA(S)BVCC38004]《ワルキューレの騎行》《ラインの黄金》ヴァルハラへの入城他では声楽が加わる。また同第2集には《マイスタージンガー》《神々の黄昏》のストコフスキーによる接続編曲が収められている ⑭ラインスドルフ=ボストン響の管弦楽曲集〈1967.10~12〉[JVC(S)JMXR24053] ⑮マゼール=ベルリン・フィル『言葉のないリング』〈1987.12〉[テラーク(D)PHCT5244] ⑯ネーメ・ヤルヴィ=ロイヤル・スコティッシュ・ナショナル管『楽劇《トリスタンとイゾルデ》オーケストラル・パッション』〈2010.2〉[Chandos(D)CHSA5087]フリーヘル編の同一シリーズに『楽劇《ニュルンベルクのマイスタージンガー》 オーケストラル・トリビュート』も

