小山実稚恵が語る、円熟のラフマニノフ、そして尽きないシューベルト愛

インタビュー
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インタビュー・文=山野雄大(音楽評論)
インタビュー写真=堀田力丸

ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番,パガニーニの主題による狂詩曲~第18変奏

小山実稚恵(p)ドミトリー・ユロフスキ指揮 東京フィルハーモニー交響楽団&フェドセーエフ・フレンズ
〈録音:2025年10月(L)〉
[ソニーミュージック(D)SICC19091]SACDハイブリッド

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デビュー40周年記念盤に、深い内面を込めて

 40周年、という月日を確かに溶かしこみながら、しかし瑞々しく熱い。名匠・小山実稚恵の最新アルバムは、昨秋おこなわれたデビュー40周年記念公演のライヴ録音盤だ。幾度となく弾き込んできた愛奏曲──ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番と、アンコールで奏された《パガニーニの主題による狂詩曲》から、甘美な第18変奏。ドミトリー・ユロフスキの指揮する東京フィルハーモニー交響楽団&フェドセーエフ・フレンズ(これは後ほどご説明しよう)と共に、小山実稚恵ならではの〈ホールを美しく揺らす、深く大きな感興が生きて流れる音楽〉が響く。実に豊かなアルバムだ。
 この最新録音をめぐって、ピアニストご本人にお話を伺おう‥‥と、晴れて日射しの暖かいある日、庭に鳥も啼くご自宅にお邪魔した。

 小山実稚恵は昨2025年まで、東京・サントリーホールで年に1回、4年にわたる協奏曲演奏会、「Concerto〈以心伝心〉」を開催してきた。その最終回、小山実稚恵デビュー40周年を飾るステージともなる2025年10月12日の公演から、後半で演奏されたラフマニノフが、今回ライヴ収録されてアルバムとなったわけだ。

「私は、コンチェルトを弾く回数ではベートーヴェンの《皇帝》が一番多くて、以前はそれにチャイコフスキーやショパンが続いていたんですが、最近はこのラフマニノフの第2番が、2番目くらいに多くなってきましたね。いかなる時代も心に迫る曲ですし」

 なにより、ラフマニノフは小山実稚恵が長年深く愛し、これまで数々のアルバムでも秀演を残してきた作曲家である。デビュー40周年記念盤としても、まさにふさわしい選曲と言えるだろう。ところが意外なことに、小山にとって今回の新アルバムはキャリア初のライヴ録音盤となった。

「これまではいつも万全の準備を整えたうえでスタジオ録音をしてきましたし、私自身も特にライヴ録音を希望してきたわけではなかったので、気づけば一度もライヴ録音をしないまま来てしまったんです」

と小山は微笑みながら、すぐ続けて
「でも、今回は指揮者のかたが本当に素晴らしくて!」
と声を弾ませ、共演したドミトリー・ユロフスキを絶賛した。
 実は当初、この公演で指揮を執る予定だったのは、小山が厚い信頼を寄せる巨匠ウラディーミル・フェドセーエフだった。しかし健康上の理由から来日を断念。その代役として登壇したのが、指揮者ヴラディーミル・ユロフスキの弟で、1979年生まれのドミトリー・ユロフスキだ。

「彼の指揮はオーソドックスなんですけれど懐が深く、若いのに肩の力が抜けているところがある。大げさなことをしなくてもすべてが伝わってきて、音楽そのもののスケールが大きい。“これがロシアなんだ”と思わせてくれるんです。もともとチェリストだそうで、『とてもよく聴こえている』という言い方をすると失礼かもしれませんが、オーケストラの隅々まで把握していらっしゃる。さらに奥様がバレリーナということもあってバレエにも造詣が深く、そのせいか身体と音楽が一体になっていることが強く伝わってくる。彼と一緒に録音できたことを、本当に嬉しく思っています」

2025年10月12日にサントリーホールで開かれたデビュー40周年記念公演では、CD収録曲の他にチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番も演奏された Photo:大塚日出樹

 こうして急遽実現した顔合わせだったが、フェドセーエフが率いるチャイコフスキー記念大交響楽団から「フェドセーエフ・フレンズ」として弦楽器奏者が各パートに加わり、東京フィルとの共演は見事な成果を生むことになった。フェドセーエフの来日中止は残念ではあるけれど、ドミトリー・ユロフスキとの出会いが新たな喜びを生んだ、その昂揚も満ちたライヴ録音なのだ。

ラフマニノフの凄さを、深い呼吸で

「チャイコフスキー・コンクールを受けたとき、ガラ・コンサートで共演した指揮者のキタエンコさんから〈私たちの音楽はもっと深い〉と言われたことが、ずっと心に残っているんです。当時の私の演奏は、まだ若かったこともあって、旋律の美しさを追うことに重きが置かれているように映ったのかもしれません。
でも今回、ユロフスキさんとご一緒して、その〈深さ〉というものをあらためて実感しました。オーケストラの団員の皆さんも同じように感じていたそうです。とにかく音楽のスケールが大きい。冒頭の和音に続くあのメロディから、これほどまでの奥行きと深みを引き出せるのかと驚かされました」

 ロシアの名指揮者の薫陶も受けてきた東京フィルから、ただならぬ凄味を引き出してみせる冒頭からして本盤の聴きどころなのだが、頼もしいオーケストラの共演を得て、ピアノの表現も十全だ。

「深い呼吸で共演できたと思います。第2番の最初の録音[1992年/A.デイヴィス指揮BBC響との共演]の当時から、もちろんこの曲を愛していましたし、持っている歌や感覚は当時も今もあまり変わらないのかも知れないけれど、〈求めるもの〉は変わったと思います。これは何を弾いてもそう。芯は変わらないけど、読み方やアプローチは変わってゆく‥‥」

 旧盤の意義や魅力が変わるわけではないけれど、豊かな音楽を呼吸し続け、熟達を磨き込み深めてきたピアニストの〈現在〉を、十全に表現しきった今回のライヴ録音は、やはり生まれるべくして生まれた大切な一枚なのだと思う。

小山実稚恵 Michie KOYAMA
日本を代表するピアニスト。宮城県仙台市に生まれ、岩手県盛岡市で育つ。東京藝術大学大学院在学中にチャイコフスキーコンクール、ショパン国際ピアノコンクール入賞以来、常に第一線で活躍し続けている。CDデビューは1986年、今回の『アルバム』が34タイトル目となる。また文筆分野では、平野昭氏との共著『ベートーヴェンとピアノ 「傑作の森」への道のり』『ベートーヴェンとピアノ 限りなき創造の高みへ』(音楽之友社)などを出版している。

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「チャイコフスキーのピアノ協奏曲は、『次はこう展開してほしい』と聴き手が自然に期待する方向へ音楽が進み、その期待が心地よく満たされていく作品だと思います。一方、ラフマニノフ、特に第3番には、『なぜここでこんな展開になるのだろう』と意表を突かれる瞬間がたくさんあるんです。
 だからといって、そうした箇所を『不自然だから』とカットしてしまうと、ラフマニノフらしさが失われてしまう。不思議だけれど、そういう寄り道や回り道のように感じられる部分こそが、音楽に欠かせない魅力になっているんです。
 テクニックの面でも違いがあります。チャイコフスキーには演奏していて爽快感がありますが、ラフマニノフは音型が唐草模様のように複雑に絡み合い、次々と枝分かれしながら進んでいく。その一方で、ピアノが自然に歌えるよう、オーケストラの書法にも実に細やかな工夫が施されているんです」

 といったデリケートな細部に至るまで、今回のライヴ録音は明晰美麗に捉えて聴き応えも深い。ピアノの輝きにも幾重もの色が重ねられ、華麗や重厚がそれだけでは終わらない、有機的な生命力を響かせてゆくさま、あらためてぐっと迫る凄いものがある。

アルバム
〔J.S.バッハ:ゴルトベルク変奏曲~アリア,ショパン:ワルツ イ短調,チャイコフスキー:《四季》~10月〈秋の歌〉,他〕
[ソニークラシカル(D)SICC39140]

ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番,パガニーニの主題による狂詩曲
アンドル・デイヴィス指揮BBC交響楽団
〈録音:1992年10月〉
[ソニークラシカル(D)SICC19065]SACDハイブリッド

ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第30,31,32番
〈録音:2021年2月〉
[ソニークラシカル(D)SICC19054]SACDハイブリッド

40周年の先──シューベルト最後の3つのソナタへ

 小山実稚恵はこのラフマニノフを含む全4回の〈以心伝心〉コンチェルト・シリーズをサントリーホールで開催したのに続き、今年2026年は同じサントリーホールで、ベートーヴェン、シューベルト、ショパン、バッハと4人の作曲家をテーマに据えた全4回のリサイタル・シリーズ〈未来永劫〉を展開中だ。
 このインタビューからほどない6月3日、その第1回としてベートーヴェン最後の3つのソナタ(第30・31・32番)を弾いた演奏会を筆者も聴かせていただいたのだが──精緻繊細な可憐さから、愛情の疾走感と変幻の美しさ、あるいは圧巻の美しい轟き、渾身の打鍵が長い余韻にも畏るべき深みをひらき……と、あらためてこのピアニストの豊かな充実と〈愛〉を感じた。深い一夜だった。
 続いて10月に開催される第2回では、シューベルトが若くして遺した最後の3つのソナタ、第19・20・21番を弾くのだが、それに先だって、軽井沢・大賀ホールでこの3曲のセッション・レコーディングがおこなわれている。このインタビューは録音の直前でもあったので、お話は自然にシューベルトにも流れてゆく。

「シューベルトについては、若い頃に感じていた“好き”と、いま感じている“好き”では、その質がまったく違うんです。若い頃は《即興曲集》のような作品の、美しいメロディに心を奪われていました。でも歳を重ねるにつれて、《ソナタ》に強く惹かれるようになりました。
 シューベルトはよく『長いわりに構成力がない』と言われますが、実際に弾いていると、そんなことはまったく感じません。同じ道を歩いているように見えても、ふとした瞬間に景色が変わるんです。同じようなフレーズが繰り返されているようでいて、クレッシェンドやデクレッシェンドの位置がほんの少しずれていたり、楔形のスタッカートになっていたり、スフォルツァンドが付いていたりする。その絶妙な違いがあまりにも繊細で、胸が締めつけられるような気持ちになります。本当に素晴らしい作曲家です」

(シューベルトは)譜面の向こう側にあるものを感じ取らなければならんないです

 シューベルトの音楽には、ほかの作曲家にはない独特の「歩きかた」や「風景の移り変わり」がある。人生経験を重ねるほど、その微妙な心の揺れ動きに、より深い親しみを感じるようになるのかもしれない。

「そうなんです。本当に、心の動きがあまりにも繊細なんです。『この方向へ進むのかな』と思った瞬間に、ふっと違う表情を見せたりする。その繊細さが、ある意味では耐えられないくらい愛おしい。本当に大好きですね。ときどき遠くで鐘の音がかすかに聞こえてくるような気がすることもあります。どこか田舎の教会がはるか彼方にあるような情景が浮かぶんですが、自分が教会の中にいるわけではないんです(笑)」

 ロシア正教会の鐘が重厚に鳴り響くようなラフマニノフの世界とは対照的に、シューベルトの鐘は遠い風景の中からそっと聞こえてくる──。そんな音風景の違いを味わえるのも、小山実稚恵が長年向き合ってきた作曲家たちを聴く醍醐味だろう。

「私はピアニストですから、ピアノという楽器の魅力を極限まで引き出すベートーヴェンやショパンやラフマニノフが大好きなんです。でも、音楽そのものとして最も惹かれるのは、シューベルトやバッハなのかもしれません。
 ラフマニノフやベートーヴェンには、『ここでこういう音を出したい』という明確なイメージがあります。一方でシューベルトやバッハに惹かれるのは、音そのものというより、息づかいや沈黙、ほんの一瞬の陰影、音が消えていく余韻の美しさです。
 ラフマニノフやショパンは、もちろんそれだけではありませんが、タッチした瞬間に生まれる音の魅力が大きい。それに対してシューベルトは、鳴った後に音がどう消えていくか、その抑揚や余韻のほうがずっと大切に感じられます。前の響きから自然に立ち上がる音や、途中からふわっと姿を現す音など、音の生まれ方も実に多彩です。終わり方ひとつとっても、『ひゅっ』と消える音もあれば、『ふぅっ』と溶けていく音もある。そんな違いに強く惹かれるんです。
 文字にすると変な話かもしれませんけれど(笑)、たとえばドビュッシーは、譜面に忠実に弾けばかなり理想的な演奏になります。でもシューベルトは、もちろん譜面を守ることが前提でありながら、それだけでは足りない。その譜面の向こう側にあるものを感じ取らなければならないんです。……そんな音楽を31歳で世に残したなんて、本当に信じられません」

 録音前から愛がとまらないシューベルト、新録音のほうも愉しみにお待ちしたい。

取材協力=ソニーミュージック・レーベルズ

コンサート情報

小山実稚恵 サントリーホール・シリーズⅡ 2026-27 
Recital <未来永劫> 第2回

日時 2026年10月29日(木) 19:00開演(18:20開場)  サントリーホール 大ホール
曲目 シューベルト:ピアノ・ソナタ第19番,同第20番,同第21番

詳細・チケット購入はこちら(サントリーホールのページ)

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