
Interview & Text=東端 哲也(ライター)
通訳:井上裕佳子
取材協力・写真提供:ソニーミュージック
今年5月の名古屋フィルの定期公演でガーシュウィン《ピアノ協奏曲ヘ調》のソリストを務め、祖父である名指揮者ジャン=クロード・カサドシュとの共演が大いに話題を呼んだトーマス・エンコ。1988年生まれの彼は10代からジャズ・ミュージシャンとしての才能を開花させ、20代はニューヨークとパリを行き来しながらソロやピアノ・トリオで活躍。一方、クラシックのピアニストとしても2017年から欧州や日本のオーケストラと共演を重ね、作曲家として映画音楽や交響曲、ピアノや室内楽曲などを手がけて高評価を得ている。これまでジャズのリーダー作からピアノ・ソロ、デュエットと、ジャンルにとらわれず、多彩なスタイルの傑作アルバムをリリースしてきた彼から、待望の新作『モーツァルト・パラドックス』が届けられた!
(編註:音楽ライターの城間勉さんによる最新盤レビューはこちら)
私は自分が好きな音楽を即興演奏したい
――本邦デビュー・アルバムは日本が誇るジャズのカリスマ・プロデューサー、故・伊藤八十八さんが手がけた『サムデイ・マイ・プリンス・ウィル・カム』(Blue In Green/2009年)でしたね。ベースとドラムによるトリオ作(※3曲だけ兄のデヴィッド・エンコがトランペット/フリューゲルホルンで参加)でスタンダード・ナンバーとオリジナルが中心なのに、1曲目がシューマン《子供の情景》の〈見知らぬ国と人々について〉から始まるので度肝を抜かれました。
10代の終わり頃、パリでの演奏を誰かが伊藤さんに教えてくれたみたいで彼から連絡があり、DVDを送ったら「日本に来ないか?」と誘われて、2008年に「東京JAZZ」の関連イベントに出演しました。ジャズとクラシックの熱心なファンがたくさんいる日本で演奏するのが夢だったのでうれしかったです! レコーディング時に「クラシック曲をもとにした即興もやってみたい」と《子供の情景》を演奏したら凄く気に入ってくれて、オープナーに採用されました。本当に伊藤さんにはお世話になったし“日本の父”として慕っていたので、2014年に亡くなられた時はショックでした。
――あなたのユニークな音楽性は30歳になった年にレコーディングしたソニー・クラシカルからの第1弾アルバム『Thirty』(2019年)でさらに磨きがかかりますね。冒頭5曲はピアノ・ソロによるジャズ志向の楽曲、続く3曲は現代のピアノ・コンチェルト、最後のピアノ・ソロ2曲はグルックのオペラ《オルフェオとエウリディーチェ》からと、もうひとつはセルジュ・ゲンスブール《ラ・ジャヴァネーズ》のファンタジックなカバーでした。
ジャズの奔放さ、自由なリズムとスウィング感、クラシックのテクニック、美しいハーモニーや対位法、そのどちらも愛しています。祖父が指揮者で母がソプラノ歌手という家に生まれて幼少期よりヴァイオリンとピアノでクラシック音楽の基礎を学び、4歳の頃に母が再婚した2番目の父がジャズのヴァイオリン奏者だったことも大きいとは思うのですが、とにかくバッハもシューマンもブラームスも、マイルス・デイヴィスもハービー・ハンコックも……みんな同じくらい尊敬しているし、私は自分が好きな音楽を即興演奏したいのです。
――ブルガリアのマリンバ奏者/作曲家のヴァシレナ・セラフィモワ(※2人は2017年に大阪室内楽コンクールに出場して銀賞を受賞している)とコラボして、《平均律クラヴィーア曲集》や《主よ、人の望みの喜びよ》といったバッハ作品のモチーフやムードに、新しい視点で自由にアプローチして創作したアルバム『Bach Mirror』(2021年)も、クラブ・ミュージックのようなグルーヴ感に溢れていて最高でした!
コロナ禍でのロックダウン中にレコーディングしたアルバムですが、今も飽きることなく楽しく弾ける楽曲が盛りだくさんです。ついこの間も彼女と一緒にポルトガルで演奏したばかり。2人でいつか日本でのステージを実現したいと思っています。

トーマス・エンコ Thomas Enhco Profile
1988年パリ生まれ。幼少期よりヴァイオリンとピアノでクラシック音楽の基礎を学び、CMDL(ディディエ・ロックウッド音楽センター)およびパリ国立高等音楽院で学ぶ。その後、国際的な評価を獲得し、Verve、ドイツ・グラモフォン、ソニー・ミュージックといったレーベルからアルバムを発表。年間100公演以上を世界各地で行なっている。
作曲家としても活動を展開し、オーケストラ、室内楽アンサンブル、合唱団、ソリストなどからの委嘱を多数受けている。交響曲を3作品、ピアノ曲、合唱曲、弦楽四重奏曲、木管五重奏、金管五重奏などの多彩な編成による作品を手がけており、一部はSony、Naïve、Mirare、Klartheなどからリリースされている。近年の映画音楽としては、エマニュエル・ベロラドスキー監督による『Elle & Lui et le reste du monde』(2024年)、ルイジ・パーネ監督による『Un Mondo in Più』(2021年)がある。
※ディスコグラフィは公式サイトを参照
《レクイエム》の〈ラクリモーサ〉が出発点になりました
――J.S.バッハを経て、ついに今回のアルバムではピアノ1台で天才モーツァルトと対峙されたわけですが、単に名曲を題材に変幻自在な即興を繰り広げるだけでなく、それこそモーツァルトの音楽に内在する(ユーモアとおどろおどろしさ、光と闇、性と俗…といった)様々な“paradox”を浮き彫りにしつつ、あなた自身が持つクラシックvsジャズという矛盾するように見えて実はそうではない音楽的な見解を導き出すような素敵な作品集に仕上がっていますね。ただライナーノーツによると、最初は躊躇してなかなか手を出さなかったとか?
そうですね。モーツァルトの音楽はとても繊細で、それ自体でもう“完璧”なので即興演奏が難しい。高度に洗練されていながら、どこか子どものようなピュアさがあって語りかけてくるので、それを壊さないように大切に扱う必要があって厄介だなと思っていたんです。きっかけは2022年に、ダヴィッド・レスコー演出による『モーツァルト、ある特別な一日』という舞台に出演したこと。18世紀風の衣装を身に纏ってカツラを被り、彼の音楽と人生に深く入り込んで(35歳で亡くなっているのでちょうど私の年齢に近かった)最晩年の日々を演じたことで、モーツァルトに捧げるようなアルバムを作りたいと思うようになったのです。劇中で、亡くなる直前に書いた《レクイエム》の〈ラクリモーサ〉の8小節を即興演奏する場面があったのですが、それがアルバムの出発点になりました。なので、選曲が少し後期の作品に偏ってしまったかもしれません。

モーツァルト・パラドックス
〔モーツァルト(トーマス・エンコ編曲):歌劇《ドン・ジョヴァンニ》序曲,ナハトムジーク,ヴァイオリン・ソナタ ホ短調,アヴェ・ヴェルム・コルプス,ピアノ・ソナタ イ短調,同イ長調,《大ミサ曲》より〈キリエ〉,司祭たちのワルツ,ディソナンス・シンフォニー,歌劇《ドン・ジョヴァンニ》より〈お手をどうぞ〉,《レクイエム》より〈ラクリモーサ〉,クラリネット協奏曲[ボーナストラック]ピアノ・ソナタ イ長調(Alternate Take)〕
トーマス・エンコ(p)
〈録音:2024年〉
[ソニー(D)SICJ30178]
【メーカー商品ページはこちら】
私の聴衆にはクラシック・ファンもジャズ・ファンもいます
――あらゆるジャンルにすばらしい作品を残しているので、素材には事欠かなかったでしょうね。
『Bach Mirror』をやった時の経験から、ピアノ・コンチェルトなどこれまでに弾いたことのある曲は敢えて避けて、頭では知っているけれど“指が知らない”曲を選ぼうと思いました。その方がより自由な発想でアプローチできるからです。即興する上で意識したのは“paradox”がテーマなだけに、いかにして“対比”を盛り込めるか。例えばトラック7の《大ミサ曲》より〈キリエ〉では左手で10拍、右手に8拍という左右で対立する2つのリズムを用いてコントラストを表現しました。またトラック9《ディソナンス・シンフォニー》では交響曲第40番の有名な箇所ではなく、最終楽章の“無調”のフレーズと、弦楽四重奏曲第19番第1楽章の緊迫した「不協和音」の2つのアイディアを融合させてみました。考える時間はいっぱいあったので、じっくり取り組んで完成させたアルバムです。
――特に《ディソナンス・シンフォニー》はモーツァルトの“狂気”が溢れていて必聴ですね。改めて原曲の交響曲第40番を聴き直してみたら、確かに現代音楽を先取りしたような驚異的なフレーズがあって、その音楽的宇宙の奥深さと底知れぬ恐ろしさを再発見した気がしました。一方で《アイネ・クライネ・ナハトムジーク》第4楽章を題材にしたトラック2《ナハトムジーク》のような楽曲は、ジャズが好きなリスナーが聴いたらキース・ジャレットへのオマージュやバド・パウエルの引用に気が付いてニヤリとするでしょうね。
幸いなことに私の聴衆にはクラシック・ファンもジャズ・ファンもいて、曲によってその反応も様々です。コンサートで《ナハトムジーク》を演奏している時に「Whoo!!」という歓声がしたら、あそこにジャズ・ファンが居るなと思うし、個人的にこのアルバムのお気に入り曲のひとつであるトラック1の歌劇《ドン・ジョヴァンニ》序曲を聴いていたクラシック・ファンが最初は「あれ?」みたいな不思議そうな表情をしていたのが、そのうち《ドン・ジョヴァンニ》だとわかって盛り上がってくる、そんな様子をステージの上から感じとることができるのが私の喜びです。
11月のリサイタル(神奈川と茨城)では日本のみなさんの前で『モーツァルト・パラドックス』のプログラムを披露できるので今からワクワクしています!
【コンサート情報】
◆大人のための音楽堂 tic! tac! toe! トーマス・エンコ(p)
11月16日(日)18:00開演 神奈川県立音楽堂 ※チケット情報はこちら
◆トーマス・エンコ ピアノJAZZリサイタル
11月24日(月・祝)14:00開演 坂東市民音楽ホール(茨城) ※チケット情報はこちら