“レコ芸的”クラシック音楽入門

同じ曲なのにここまで違う 6人が語る同曲異演の楽しみ【前編/チャイコフスキー《悲愴》】

"レコ芸的"クラシック音楽入門特別企画
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クラシック音楽には、一つの作品を異なる演奏で何度も聴く「同曲異演」の楽しみがある。演奏会が一回限りの体験として過ぎていくのに対し、録音は同じ演奏へ何度でも戻り、そこで何が起きているのかを考えることを可能にした。同じ楽譜から、指揮者やオーケストラ、録音された時代によって、まるで違う音楽が立ち現れる。ゲストに演奏史譚の山崎浩太郎氏を迎え、名盤を一枚に決めるのではなく、それぞれが選んだ一枚を手がかりに、聴き比べの面白さを語り合った。前編はチャイコフスキーの交響曲第6番《悲愴》。選ばれた6種の録音から見えてきたのは、「《悲愴》らしさ」そのものの多様さだった。

【後編は10月9日公開】

座談会出席者=山崎浩太郎、編集A・B・C・D・E

A 「レコ芸的」な聴き方とは何だろうと考えると、やはり同曲異演ではないかと思ったんです。クラシックを聴き始めた頃から『レコード芸術』に親しんできた人には当たり前でも、同じ曲の録音をいくつも集め、繰り返し聴くのは、考えてみれば特殊な行為です。今日は順位を決めるのではなく、一人一枚ずつ持ち寄って、「なぜこれが好きなのか」を話してもらいます。

B 録音を繰り返し聴くと、演奏会では気づかなかったことが見えてきます。指揮者も奏者もリハーサルを重ね、どう演奏するかを考え抜いている。それを一度聴いて「よかった」で済ませず、考え、味わい、曲をもっと好きになる。実演とは別の意味で大切な経験だと思います。

バーンスタイン/ニューヨーク・フィル(1986)
――《悲愴》らしさへの没入

レナード・バーンスタイン指揮ニューヨークpo
〈録音:1986年8月〉
[グラモフォン(D)UCCG90804]

A では、まず私から。バーンスタイン&ニューヨーク・フィルによる1986年の録音です。作品と完全に同化してしまったような、没入型の《悲愴》。晩年のバーンスタインは、ときに全体のプロポーションを崩してまで、一つの部分へ深く入り込んでいきます。それが別の曲では違和感につながることもありますが、《悲愴》にはぴたりとはまる。ここまで徹底して「《悲愴》らしさ」に振り切ってくれるとうれしいんです。マーラーの交響曲第9番へとつながるものまで感じられます。

C いま言われた「《悲愴》らしさ」とは、具体的にどういうものですか。

A この作品にまつわるさまざまな逸話や、最後に死に絶えるように終わる曲想は、演奏解釈に決定的な影響を与えているように思われがちです。ただ、実際の演奏では、むしろそこから一歩引き、純音楽的に処理されることが多いように思います。そうした「物語」があまりにも出来すぎているため、かえって敬遠されるのでしょう。しかし、バーンスタインは、その物語性を極限まで突き詰めます。曲の中へ完全に入り込んでしまう。「物語」を外側から描くのではなく、自分自身の出来事として引き受けている。その振り切れ方を、私は「《悲愴》らしい」と感じます。

E 私は、やはり崩さない演奏に惹かれます。後で出てきますが、ライナーやフリッチャイはフォルムが端正です。バーンスタインのように崩していく表現とは、かなり対照的ですね。

A まさに、その違いを並べて聴くのが今回の趣旨ですね。

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