インタビュー
『レコード芸術ONLINE』独占インタビュー

ハ・ユナ&ファン・ゴニョンが挑む
J.S.バッハとの「時を越える対話」

ファン・ゴニョン(左)とハ・ユナ

インタビュー・文=本田裕暉(音楽学・音楽評論)
通訳=嵯峨山みな子
写真=かくたみほ
取材協力=東京エムプラス

2016年のミルクール国際ヴァイオリン・コンクールで優勝および最優秀演奏者賞を受賞し、同年からエスメ弦楽四重奏団の創設メンバーとしても活躍するハ・ユナ。第4回スヴャトスラフ・リヒテル国際ピアノ・コンクールで優勝、ソロや協奏曲のみならず室内楽にも積極的に取り組むファン・ゴニョン。韓国に生まれ、世界の舞台で活躍する2人の俊英が初のデュオ・アルバムをリリースした。収録されたのはJ.S.バッハ《ヴァイオリンと鍵盤楽器のためのソナタ集》。2人は本作の録音プロジェクトを10年前からあたためてきたのだという。モダン楽器でバッハを演奏することの意義や互いの音楽性などについて、じっくりと語ってもらった。

時を越える対話
〔J.S.バッハ:ヴァイオリンと鍵盤楽器のためのソナタ 第1番~第6番 BWV.1014~19〕

ハ・ユナ(vn)&ファン・ゴニョン(p)
〈録音:2025年1月〉
[AudioGuy Records(D)AGCD0188(2枚組)]
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バッハのソナタは「人間バッハ」に
スポットが当たっている

――まずはバッハのソナタとの出会いについてお聞かせください。ブックレットには「2人は中学時代の同級生だった。偶然にもドイツのケルンで再会した2人は、多くの共通点に気づき、とりわけバッハへの深い愛情によっていっそう親密になった」とありますね。

ユナ
ユナ

私たちが通っていたのは芸術中学校で、同級生はみんな芸術家を志している人だったんです。私は後にパリ国立高等音楽院の修士課程に進んだのですが、ゴニョンさんはケルン音楽大学で学んでいました。そして私がケルンに引っ越しすることになり、そういえば同級生がいたなということで連絡して。一緒に話をするなかで、お互いにバッハと彼のソナタが好きだということがわかり、そしてフランク・ペーター・ツィンマーマンの演奏する映像を観てインスピレーションを受けました。そこから演奏へ向けた譜読みが始まったんです。

ゴニョン
ゴニョン

私自身が一番尊敬していて、憧れている作曲家はバッハなのですが、ヴァイオリンと鍵盤楽器のために書かれた楽曲はこの6つのソナタだけなのですよね。そうして始まった長期的なプロジェクトが、今回実を結んだのです。

――バッハのソナタのどのような点に惹かれますか?

ユナ
ユナ

《無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ》が技術的に難しく、シリアスな曲調なのに対して、ソナタ集は和声もロマンティックで、どこかバッハのプライベートな面を見せてくれる曲だと思いました。バッハは「音楽の父」として神格化されていますが、この6曲では「人間としてのバッハ」という側面にスポットが当たっているように感じます。

――演奏や録音に向けてどのような研究をされたのでしょう?

ゴニョン
ゴニョン

最初はツィンマーマンの録音を聴いていたのですが、その後は古楽アンサンブルなども聴いて、バッハがどのような響きを考えていたのかを探求しました。しかし、バッハが生きた当時の響きはわかりませんし、作曲家の生き様も言葉を通して伝わっているだけなのですよね。では、バッハの遺した音楽を、彼の感情や考え方を、どのように今の聴衆に伝えていくべきなのか。これはアルバムのタイトル「Timeless Dialogue(時を越える対話)」にも繋がる部分なのですが、300年前の音楽を2025年の私たちが演奏するにあたって、いかにしてそうした「時代の隔たり」をなくし、今を生きる人々とバッハの音楽を結びつけるかを考えました。実際の演奏へ向けてはマニュスクリプトも参照し、その筆致からフレーズの表現などを読み取りつつ音楽を作っていこうと試みました。

Yuna Ha Profile
ソウル芸術高校を経て、ソウル大学校音楽大学を卒業、パリ国立高等音楽院で修士課程を修了。その後、リューベック国立音楽大学、ハノーファー音楽大学、ワイマール・フランツ・リスト音楽大学でも研鑽を積む。国際コンクールでも数々の優勝・入賞を果たす一方、2016年に結成したエスメ弦楽四重奏団の創立メンバーとして活動し、ウィグモア・ホール国際コンクールで優勝して注目を集め、音楽祭のレジデント・アーティストを務めるなど国際的な舞台での活発な活動を行なっている。教育活動にも熱心で、現在はサンフランシスコ音楽院で室内楽を指導している。
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Gunyoung Hwang Profile
韓国の芸園学校とソウル芸術高校を卒業後、17歳でドイツに渡り、ベルリン・ハンス・アイスラー音楽大学に早期入学。その後ケルン音楽大学にて修士課程および最高演奏家課程を最高評価で修了。合わせて室内楽修士課程も修了。エリソ・ヴィルサラーゼ、ベルント・ゲツケ、ジェームズ・コンロンなどに師事。第4回リヒテル国際コンクール優勝など数々のコンクールで優秀な成績を収め、韓国や欧米で活発な演奏活動を繰り広げている。現在、芸園学校、ソウル芸術高校で後進の指導に当たるとともに、UNISTパフォーミング・アーツ・フェスティバルの招聘教授としても活動している。
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今を生きる私たちにとって
モダン楽器の演奏に意味がある

――ピリオド楽器による録音も多数リリースされている今、あえてモダン楽器でこの作品に取り組むことの意義をお2人はどのようにお考えでしょう?

ユナ
ユナ

私が今回の録音でモダン楽器を弾いているのは、ピアノとあう音色が出せると思ったからです。チェンバロは、すべての演奏会場に置かれている楽器ではないので、この曲の価値をいろいろな人と共有したいという想いもあって、私たちはモダン楽器で演奏することにしたんです。

ゴニョン
ゴニョン

私はHIP(歴史的知識にもとづく演奏)のスタイルで演奏されているみなさんを尊敬しています。その上で今考えているのは、バッハが現代を生きていたらどういう曲を書いていただろうか、ということです。私たちはこれまでの300年間のさまざまな音楽に接することができるわけですから、それらを踏まえて、今を生きる私たちが演奏することに意味があると思っています。

――バッハの音楽と向き合ううえで、他の作曲家の場合と比べて特に意識したことなどはあるのでしょうか?

ユナ
ユナ

私はピリオド楽器は弾いていないのですが、バロック・ボウの弓使い、アーティキュレーションは意識しています。モダン楽器らしいアタックやヴィブラートを多用するのではなく、優雅で、いくぶん豊かに共鳴しながらも、時には節制しているような奏法を目指しているんです。20世紀を生きたラヴェルらの作品と比べて、バッハの音楽には楽譜の行間にとても多くの余白が置かれています。バッハはそうした行間を用意することで演奏家に自由を与えているのだと思いますから、私はその自由から得られる感情を伝えられるよう努めています。

――ゴニョンさんのピアノは、モダン楽器ならではの幅広い表現力を活かして立体的な音楽をかたちづくっていらっしゃいます。分かりやすいところでは第4番の第1楽章で、最初のリピート記号までの部分を1度目はレガート気味にしなやかに演奏しているのに対し、2度目はスタッカート気味に奏でて変化をつけていますね。

ゴニョン
ゴニョン

やはり、バッハが今この時代を生きていたらどんな音を書いていただろうかということを想像したんです。当時の鍵盤楽器にはできなかったけれども、今の楽器では可能な部分はたくさんあるはずです。であるならば、今できる表現を使うべきだと思っています。作曲家が伝えたかったであろうことを守りながらも、バッハにこれまでの300年間の楽器の進化・発展を伝えてあげたい、という気持ちで表現を選択しています。基本を守りつつ、モダン楽器だからこそできることを表現しようとしているんです。

インタビューは2025年5月30日に行なわれた




勉強が追い付いたら
モーツァルトのソナタをやりたい

――お2人は2年前から頻繁に共演されるようになったとのことですが、お互いの奏でる音楽についてはどのように感じていらっしゃいますか?

ユナ
ユナ

ゴニョンさんは先日、すばらしいリサイタルを開かれたんです。それを聴いたときに改めて、ゴニョンさんは心があたたかいからでしょうか、音色もあたたかく、さまざまな音色を出せるピアニストだと感じました。そうした感性を持っている一方で、非常に理性的かつ分析的に音を組み立てていくこともできる。加えて、純粋な音楽を奏でているとき――そもそもそれ自体がとても難しいことなのですが――彼のセンスはいっそう光り輝くように感じています。特にアンコールのバッハのプレリュードを聴いたときに、そう感じましたね。

ゴニョン
ゴニョン

ユナさんのヴァイオリンはクールな響きがしますから、本人も理性的な人なんだろうと思っていたのですが、実際にはとてもあたたかな方なのです。エスメ弦楽四重奏団での活動を通してたくさんの経験を積まれていて、演奏だけでなく共演者の音を聴く技術も本当にすばらしい。私のピアノの音を巧みにキャッチして、次に私がどのように語り掛けてくるかを予想しながら演奏してくれています。きっと私が自分の音を聴く以上に、彼女は私の音を聴いているだろうなと。彼女からは本当にたくさんのことを学ばせてもらっています。

――今後のご予定や目標は

ユナ
ユナ

私は普段、自分が好きで、いいなと感じたものをたくさんの人に聴いていただきたいと思っています。今回のアルバムも、エスメ弦楽四重奏団の活動も同じです。室内楽は広く親しまれているジャンルではないと思いますが、そこにはまだまだ知られざる傑作が眠っています。そうした作品たちを発掘していけたらいいですね。
ゴニョンさんはモーツァルトが本当にすばらしいんです。きれいな音色と繊細なコントロールがモーツァルトにあっていると思います。モーツァルトにはたくさんのソナタがありますから、私もまだ勉強が追いついていないのですが、いつか一緒にできればうれしいです。

ゴニョン
ゴニョン

その他にもやりたいことが本当にたくさんあって、生きている間にすべてはできないと思います(笑)。個人的な目標としては、じつは私はオーケストラを聴くのが好きでして、いつかはピアノからオーケストラのような響きを引き出せるピアニストになりたい、と思いながら楽器を弾いています。

インタビューの翌日、2人はタワーレコード渋谷店でのインストアイベントに臨み、アルバム収録曲から第4番と第6番の全曲と第2番の第2楽章を披露。息のあった爽やかな快演で、雨のなか集まったたくさんの聴衆からあたたかな拍手を浴びていた。2人はイベントでも「モーツァルトやベートーヴェンのソナタなどのレパートリーを研究していく」と宣言していたが、はたして古典派の名曲ではどんな響きを聴かせてくれるだろうか。今後の展開にも期待しつつ、まずは2人が大切に紡いだ「時を越える対話」をじっくりと愉しみたい。

インストアイベントのリハーサルより
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