
インタビュー後に行なわれたイベントにて、演奏を披露する乾
ノエ・乾はギリシャ人の母、日本出身の父を持つブリュッセル出身のヴァイオリニストである。ブリュッセルの音楽アカデミーと王立音楽院、パリ国立高等音楽院、カールスルーエ音楽大学をすべて首席で卒業し、現在はデュッセルドルフを拠点に世界各国で演奏活動を展開している。
そんな彼が、ヴァイオリニストにとっての“聖典”ともいえるJ.S.バッハの《無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ》の録音に挑んだ。
ききて・文=長井進之介(ピアニスト・音楽ライター)
取材協力=東京エムプラス、藍インターナショナル
写真=編集部
【新譜情報】

J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ(全曲)
ノエ・乾(vn:1764年マントヴァ製トマゾ・バレストリエリ)
〈録音:2025年9月〉
[アルス・プロドゥクツィオン(D)ARS89003S]※2枚組
【公式商品ページはこちら】
ヘルガ・テーネとの出会いと、再構築の始まり
乾 約10年前に一度録音の企画をご提案いただいていたのですが、ちょうどその頃はバロック音楽の専門家のもとでバッハ作品の勉強をはじめ、その奥深さに触れていた時期でした。まだまだ学ぶべきことがたくさんある状態でしたので、“今の自分がこの作品を録音するのは無責任だ”と感じ、実現を見送ったのです。その専門家というのがバロック音楽研究者・演奏家であるヘルガ・テーネ先生でした。約8年間にわたり定期的に師事し、テクニックだけではなく、音楽を“語らせる”ことや和声の流れを聴かせること、歴史的背景や様式を理解することを徹底的に教えていただきました。
乾がテーネ氏のもとで改めてバッハを学ぶ際に最も苦労したのは、若い頃から身につけてきた演奏習慣を一度捨て去ることだったという。
乾 コンクール向けの、正確さや速さ、華やかさを重視する弾き方から離れ、音楽の文脈やフレーズの呼吸、和声の方向性、旋律を言葉として届ける音楽表現を実現できる演奏へと変えていくのはとても大変なことでした。そしてこれを消化しきるまで録音はできないと思いました。

ノエ・乾 Noé Inui
1985年、ギリシャ人の母と日本人の父のもと、ベルギー王国ブリュッセルに生まれる。ブリュッセルの音楽アカデミーと王立音楽院、続いてパリ国立高等音楽院、ドイツのカールスルーエ国立音楽大学を全て首席で卒業。
J.S.バッハの無伴奏作品の世界的権威であるヘルガ・テーネ教授との出会いは、彼のキャリアに決定的な影響を与えた。10年以上にわたる対話と研鑽を通じ、長年の演奏習慣を「学び、捨て、再び学ぶ」ことでバッハ解釈の新たな境地を開拓する。
ドイツの「ARS Produktion」レーベルからは、ウジェーヌ・イザイの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ全曲録音(世界初録音となる《エチュード=ポエム》を収録)等をリリースし、世界的な称賛を浴びてきた。現在はデュッセルドルフのロベルト・シューマン音楽大学などで教鞭をとる傍ら、日本を含む世界各地でソロ、室内楽等活発な演奏活動を行なっている。
使用楽器は1764年マントヴァ製の銘器トマゾ・バレストリエリ。デュッセルドルフ在住。
・公式ホームページ(英語)はこちら


1 イザイ:6つの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ op.27,エチュード=ポエム op.9*
ノエ・乾(vn)マリオ・ヘリング(p)*
〈録音:2018年11月〉
[アルス・プロドゥクツィオン(D)ARS38269S]※SACDハイブリッド
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2 アイデンティティ~20世紀前半のヴァイオリン・ソナタ集
〔ドビュッシー:ヴァイオリン・ソナタ ト短調 L.148(140),シュールホフ:ヴァイオリン・ソナタ,ヤナーチェク:ヴァイオリン・ソナタ JW.VII/7,シマノフスキ:ヴァイオリン・ソナタニ短調 op.9,夜想曲とタランテラ op.28〕
ノエ・乾(vn)マリオ・ヘリング(p)
〈録音:2015年7月〉
[アルス・プロドゥクツィオン(D)ARS38189S]※SACDハイブリッド
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“レッスン”で気付かされた《ソナタとパルティータ》の魅力
テーネ氏のレッスンは一般的な音楽教育とは異なり、非常に自由なものだったという。
乾 お茶を飲みながら音楽や歴史について語り合い、時にはレッスン以上に対話から多くを学んだこともありました。指導を受けるようになってはじめて取り組んだのはバッハの《パルティータ第2番》のアルマンドで、この曲のわずか30小節を半年以上かけてレッスンしていただきました。アーティキュレーションやダウンボウとアップボウの違い、音の長短、間の取り方などを徹底的に追究していったのです。テーネ先生は“モダン奏法はアイロンをかけたようにすべてを平らにしてしまう”とおっしゃっていて、言葉の抑揚のように音楽を演奏することの重要性を教えてくださいました。
ときにはピリオド楽器に触れる機会もあるが、乾は基本的にモダン仕様の楽器・弓で演奏している(今回も1764年マントヴァ製の銘器トマゾ・バレストリエリを使用)。ただし、歴史的奏法の知見やバロック時代の様式感、舞曲ごとの性格を学び、それをモダン楽器上で実現することを目指してきたという。
乾 私のバッハ演奏は、ピリオド奏法とロマン派的なアプローチの中間に位置するものだといえます。私自身はモダン楽器でもバロック的な発想は十分表現できるという考えなのです。

「私のバッハ演奏は、ピリオド奏法とロマン派的なアプローチの中間に位置するものだといえます」
乾に大きな影響を与えたテーネ氏は、バッハの《パルティータ第2番》の終曲である〈シャコンヌ〉を「トンボー(追悼曲)」と解釈した説でよく知られている。この説はバッハの最初の妻であるマリア・バルバラへの追悼作品であるという考えに基づいたもの。乾はこの説を絶対的な真実と断定はしないものの、楽曲構造や変奏の意味、曲全体のドラマを考えるうえで非常に大きな示唆になったという。
乾 以前は“壮大な名曲”という見方が中心でしたが、現在はその背後にある人生や喪失の物語をより深く感じられるようになったのです。さらに、テーネ先生のもとで学ぶ中で、《ソナタとパルティータ》に対する印象が変わりました。若い頃は正直なところ、この作品に対して特別な感情は抱いていませんでした。父親の影響でヘンリク・シェリングの録音を聴いて育ちましたが、コンクールの課題曲、勉強しなければならない作品という印象が強かったのです。しかし長年の研究を経て、やっとこの作品の魅力とつながることができた感覚があります。
現在ではバッハをコンサートの冒頭に置くだけでなく、終曲として置いても十分成立するほど強い存在感のある音楽だと考えている。
乾 以前でしたらイザイなど超絶技巧の作品を後半に置いて、バッハの作品は前半に弾いていたのですが、いまではバッハを最後に置くことで十分成立すると思います。実際に先日、あるコンサートの終わりにバッハの《パルティータ第2番》を演奏しました。
録音で重視した“音楽において本当に大切なもの”
乾が近年最も大切にしている理念は、音楽を話すように演奏することである。
乾 舞台上で重要なのは完璧な再現ではなく、その日のエネルギーや観客との関係性だと思います。クラシック音楽に求められがちな正確無比な再現性よりも、その瞬間にしか生まれない表現を重視するようになりました。そのため装飾音やトリルも、固定化された記号ではなく、ヴィブラート的役割や和声を強調する役割、緊張感を生む役割など、文脈ごとに使い分けています。文脈や流れというのは音楽において本当に大切なもので、音符の正確さだけを追求すると音楽が失われてしまいます。長いフレーズを保ったテイクの方が音楽的なので、録音においても“つぎはぎ編集”は行なっていません。今回もライヴ感や大きな流れを大切にしました。
《無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ》は多彩な舞曲から成る組曲だが、そのリズム感については比較的自然に向き合えたという。
乾 私自身、ギリシャにルーツを持つことから幼少期から民族音楽やリズム文化に親しんできました。さらにパリ国立高等音楽院では厳しいリズム教育も受け、不規則拍子や複雑なリズムへの対応を自然と身につけることができたのです。リズムの面では自然と取り組むことができましたね。
ノエ・乾は、バロック音楽と真摯に向き合うことで自らの演奏観を根本から見直し、長年培ってきた奏法や価値観を再構築していった。その過程で得た知見と経験のすべてが注ぎ込まれた今回の《無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ》は、10年以上にわたる探求の結晶であり、乾自身の現在地を示す重要なアルバムとなっている。
【ミニレポート】

『J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ&パルティータ(全曲)』
CD発売記念イベント
@TOWER CLASSICAL SHIBUYA(タワーレコード渋谷店8F)
インタビューを行なった9月8日(火)夜、ノエ・乾さんの新譜発売記念イベントが開催!
日本では「音楽の父」ともいわれるJ.S.バッハは、実際のところ何がすごいのか?という観点のもと、《ソナタとパルティータ》に登場するアルマンドやシチリアーナなどの「舞曲」と、同時代の作曲家(ヴェストホフ、テレマン、ジェミニアーニ)による同一形式の作品とを交互に弾き比べるという、とても興味深く、貴重な内容でした。
特に最後に演奏された《パルティータ第2番》の〈ジーグ〉、〈シャコンヌ〉は圧巻の熱演で、立ち見の観客も多かった一夜限りのステージは、温かな拍手で締めくくられました。
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【新譜情報】

J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ(全曲)
ノエ・乾(vn:1764年マントヴァ製トマゾ・バレストリエリ)
〈録音:2025年9月〉
[アルス・プロドゥクツィオン(D)ARS89003S]※2枚組
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