アーヴィン・ニレジハージ
そしてジュリアス・イーストマン
いま注目が集まる二人のクラシック音楽家について

特別企画
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スライド _ニレジハージとイーストマン
『ニレジハージ・ライヴ』Vol.1(左)と『ゲイ・ゲリラ』ジャケ写

ピアニスト、アーヴィン・ニレジハージ(1903~87)の幻の録音『ニレジハージ・ライヴ』Vol.1~4、そして作曲家、ジュリアス・イーストマン(1940~90)の代表作を現代音楽コレクティヴ、ワイルド・アップが演奏した新アルバム『ゲイ・ゲリラ』が相次いでリリース(一部はリイシュー)されました。
 同じアメリカ合衆国で活動したとはいえ、片や「スラム街へ消えたピアニスト」、片や「ブラック・クィアのミニマリスト」。直接的な共演歴などはなく、一見すると関わりのない二者に思えますが、比類なき才能を持ちながら、その過激なまでの音楽性などのために表舞台から姿を消し、現代において劇的な再評価を遂げているという数奇な共通点を見出せます。
 今回の記事では、この二人の音楽家の紹介をとおして、クラシック音楽界の一側面に光を当てることを試みます。

※本稿の記述は『ニレジハージ・ライヴ』Vol.1~4[ソネット・クラシックス]および『Unjust Malaise』[New World Records]のライナーノーツに多くを拠っています

Text=編集部 (H.H.)

そのリスト弾き、過剰につき

彼[編注:ニレジハージ]の演奏は、もっぱら昔ながらの意味での「表現」そのものです[…]私にとって、そしておそらくあなたにとっても、それはあまりにも過剰すぎるでしょう。しかし、全体として見れば、信じがたいほど斬新で、説得力に満ちています[…]もし私に決定権があれば、すぐにでも彼を起用するでしょう。

———シェーンベルクがクレンペラーに宛てた手紙より(1935年12月2日付)

アーヴィン(エルヴィン)・ニレジハージ Ervin Nyiregyháziが生まれたのは1903年1月19日のブダペストのこと。ユダヤ系中流家庭の出身で、音楽家の家系でもあった。さらに早熟の神童であり、5歳で王立音楽院に入学し、12歳でアルトゥール・ニキシュの指揮するベルリン・フィルと共演する。10代の頃はエルンスト・フォン・ドホナーニとフレデリック・ラモンドに師事した。後者はフランス・リスト最後の高弟の一人で、つまりニレジハージは(実際の評価はともかく)リストの直系ピアニストということになる。20年には17歳で単身大西洋を渡り、ニューヨーク(以下、NY)のカーネギー・ホールでデビューを果たす。彼のピアニズムは、当時のメディアの評によれば「リストの再来」と形容される古風ながらもロマンティックなもので、賛否両論を浴びながらも、ひとまずの成功を収めたのだった。

しかし20歳を過ぎたころから、ある綻びがあらわれ始める。それは生活面・経済面における、彼のあまりにも不器用な気質だった。マネジメントとの契約上の衝突に加えて、自身の気性の激しさから楽壇を追われることになったのだ。彼が愛読していたというドストエフスキーやオスカー・ワイルドが描いた芸術家像への憧れもあったかもしれない。ロサンジェルス(以下、LA)の安宿街に移ったニレジハージは、もっぱら場末のピアニストとして酒や女に溺れながら細々生計を立てるようになる。もちろん家にピアノなどなかった。

かようにして「スラム街へ消えた」ニレジハージであったが、理解者もいた。そのなかで特筆すべき存在がアルノルト・シェーンベルク(1874~1951)である。ナチスの台頭を背景に33年に合衆国へ亡命し、LAに安住の地を見出した35年の晩秋、偶然にもこのピアニストが実際に演奏するのを聴いて(何の曲の演奏を聴いたのかは、シェーンベルク・センターで公開されているその日の手紙のなかには書かれていない)衝撃を受ける。すぐさま、同じく亡命してきてロス・フィルのポストにあった指揮者オットー・クレンペラー(1885~1973)に激賞をしたためた。ただし両者の共演はついに実現しなかった。

1 録音されたピアニズムのランドマーク第1集
〔シェーンベルク:3つのピアノ小品~第2曲,他多数〕

アーヴィン・ニレジハージ(p)他多数
〈録音:1978年3月,他〉
[Marston(M/S)520732(2枚組,海外盤)]CD

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ただしシェーンベルクとの共演(?)は、ニレジハージがシェーンベルクの作品を演奏・録音するかたちで実現している。もっとも、手紙の一件から30年後の話だが。

2 クレンペラー・イン・ロサンジェルス 1934~38
〔ベートーヴェン:交響曲第5番《運命》,ブラームス=シェーンベルク:ピアノ四重奏曲第1番,他〕

オットー・クレンペラー指揮ロサンジェルス・フィルハーモニー管弦楽団
〈録音:1934年1月~39年2月〉
[Archiphon(M)ARC114(2枚組,海外盤)]CD ※現在取扱なし
[Archiphon]配信

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ロス・フィル在籍時のクレンペラーの録音(音質は非常にわるい)。これを聴くと、たしかにニレジハージとは水と油という感じがする。

ニレジハージと邂逅を果たした1930年代半ばのシェーンベルクは、南カリフォルニア大学でジョン・ケージ(1912~92)に和声法などを教えている。ニレジハージのことも教えただろうか? LA生まれのケージはその後、42年にNYへ本格的に移ってマース・カニンガムやデヴィッド・テュードアたちと出会い、コロンビア大学で鈴木大拙に禅を学んだりするなかで独自の作風を確立させていく。《プリペアド・ピアノのためのソナタとインターリュード》(1946~48)や《4分33秒》(1952)といった代表作が生まれたのもNYでのことだ。現代音楽界の欠かせないアイコンとなった75年、彼はあるアフロ・アメリカンの気鋭の音楽家と出会うことになる。

自分という存在を最大限に生きる

私が目指しているのは、自分という存在を最大限に生きることだ。
黒人として最大限に、音楽家として最大限に、同性愛者として最大限に。

———1976年にイーストマンが語ったとされる言葉

ジュリアス・イーストマン Julius Eastmanは1940年10月27日、ニレジハージが去った後のNYに生まれた。アフロ・アメリカンの家系で、14歳の時にピアノを始めて​​59年にカーティス音楽院へ入学、ミェチスワフ・ホルショフスキに師事する。58年から同じ音楽院で学び、同じホルショフスキ門下にあったピーター・ゼルキンと机を並べることがあったかもしれない。その後の61年、イーストマンは専攻を作曲に変更した。さらに彼はバリトン歌手としての才能にも恵まれていた。マックスウェル・デイヴィスの《マッド・キングのための8つの歌》のアルバム録音では主役をやってのけ、ピエール・ブーレーズが指揮するニューヨーク・フィルの同曲上演でも歌ったという。

3 マックスウェル・デイヴィス:マッド・キングのための8つの歌,ミス・ドニソーンのマゴット*

ジュリアス・イーストマン(Br),マックスウェル・デイヴィス指揮ファイヤーズ・オブ・ロンドン,他
〈録音:1970年10月,84年5月*〉
[Unicorn-Kanchana(S)DKP9052(海外盤)]CD

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《8つの歌》は、精神疾患に苦しんだイギリス国王ジョージ3世の残した文章や記録に基づくミュージック・シアターの古典的傑作。2023年にクラウス・マケラがオスロ・フィルの定演で(ベルリオーズの《幻想交響曲》と組み合わせるかたちで!)採り上げたことでも話題となった。このアルバムは作曲家自身が指揮し、また初演直後の収録ということもあって決定盤として長らく聴き継がれ、現在に至る。

やがて作曲家ルーカス・フォスに才能を見出されたイーストマンは、69年からニューヨーク州立大学バッファロー校で教えるようになり、モートン・フェルドマン(1926~87)やフレデリック・ジェフスキー(1938~2021)も所属していた同校の現代音楽アンサンブル「クリエイティヴ・アソシエイツ」に参加し、「S.E.M.アンサンブル」の創設にも関わるなど、現代音楽シーンの寵児となっていく。《ステイ・オン・イット》(1973)や《フェミニン》(1974)で知られるこの頃の作風は「オーガニック・ミュージック Organic Music」と表現され、既存のミニマル・ミュージックをベースに有機的(オーガニック)な即興性を取り入れた方法論を提案する、当時としては斬新だが、しかし親しみやすい印象を持つものだった。

当時のミニマルといえば、65年に金字塔たるテリー・ライリー(1935~)の《In C》が初演され、68年にはコロンビア・レコードからアルバムがリリースされてもいる。その後はスティーヴ・ライヒ(1936~)やフィリップ・グラス(1937~)が次々に作品を発表していくことになるが、ここで主流となったのは、従来の西洋芸術音楽の伝統を断ち切るような、禁欲的かつ理知的で、感情を排した客観性の高いスタイルだった。しかしイーストマンの音楽は違った。古典からの伝統や引用を拒絶しなかったし、はっきりと野生的で主観的だった。この傾向は、続くポスト・ミニマルをも予見するものだ。イーストマンを「黒いスティーヴ・ライヒ」と呼ぶ言説もあるが、作曲家サン=ジョルジュが「黒いモーツァルト」と呼ばれながら、実はモーツァルトよりも先を行っていた(サン=ジョルジュのことは、谷戸基岩氏による『シュヴァリエ・ド・サン=ジョルジュの肖像』の新譜月評に詳しい)のにも似て、彼はいろいろな点で早すぎたのだ。

4 テリー・ライリー:In C
〔+ア・レインボー・イン・カーヴド・エアー〕
テリー・ライリー(リーダー・sax)バッファロー・ニューヨーク州立大学創造・演奏芸術センターのメンバー
〈録音:1968年3月,他〉
[ソニー・ミュージック(S)SICC40311]CD

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《In C》はミニマル・ミュージックの出発点となった重要作。本アルバムについて矢澤孝樹氏が「音楽の印象は、スティーヴ・ライヒやフィリップ・グラスのミニマルに比べより自由で、開放的」(不滅の名盤のページより)と評しているが、その自由、開放的といった部分は、イーストマンが先鋭化させた要素に他ならないだろう。

5 イーストマン:フェミニン

S.E.M.アンサンブル
〈録音:1974年11月(L)〉
[Frozen Reeds(S)FR006(海外盤)]CD
[Frozen Reeds(S)FR006LP(2枚組,海外盤)]LP ※現在取扱なし
※リンクはCD版のもの

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この《フェミニン》はイーストマン自身も参加したライヴ録音だが、生前に商業リリースされることはなかった。LP盤のリマスタリングにはジム・オルークが関わっている。

同時期のNYでは、1969年6月にゲイバーへの不当捜査を契機とするストーンウォール暴動が発生し、翌70年6月には世界初のプライド・パレードが行なわれている。さらに翌71年9月に、これはNYではないが同じニューヨーク州のアッティカ刑務所で、囚人の待遇や有色人種への差別に反発した暴動が起きている。こうした世情も、以降にイーストマンの作風が変化していった背景といえるかもしれない。とりわけアッティカの暴動はジェフスキーに《カミング・トゥギャザー》(1972)を作らせるなど、音楽界にも大きな影響を与えている。この作品はミニマルとプロテストが交差する点で、後述する《ゲイ・ゲリラ》などの先駆にも位置付けられそうだ。

順風満帆に見えたイーストマンだったが、75年6月4日、あるスキャンダルに見舞われる。ケージの演劇的作品《ソング・ブックス》のパフォーマンスにおいて、ゲイ・アクティビズム的でエロティックな演出を行ない、客席にいたケージ本人を激怒させたのである。もっとも、ケージも同性愛者であったが、その方法に強い拒否感を覚えたのだ。彼はたちまち所属するグループから大きな反発を受け、かねてからの不適応も手伝ってニューヨーク州立大学バッファロー校の教職を辞めることになり、追い出されるようなかたちで楽壇のメイン・ストリームを去ったのだった。

それからイーストマンは、アートスペース「ザ・キッチン」を中心とするNYのアンダーグラウンドな芸術シーンへ向かった。そこではスティーヴ・ライヒやメレディス・モンク(1942~)、アーサー・ラッセル(1951~92)が活躍していて、イーストマンはモンクやラッセルとコラボレーションを行なっている。しかし彼の芸術的衝動はそれだけでは満たされなかったようだ。彼はこのあと「自分という存在を最大限に生きる」べく、精力的に創作を行なっていくことになる。

6 Dolmen Music
〔モンク:ドルメン・ミュージック,ゴッサム・ララバイ,トラベリング〕

メレディス・モンク,アンドレア・グッドマン,モニカ・ソレム,ポール・ラングランド(vo)ロバート・イーン(vo・vc)ジュリアス・イーストマン(vo・perc)他
〈録音:1980年3月,他〉
[ECM New Series(S)8254592/ECM1197(海外盤)]CD

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ECMの数あるアルバムのなかでも名盤に数えられる一枚で、モンクの名が世界に広く知られる契機となった。イーストマンはヴォーカリストそしてパーカッショニストとして参加している。

7 ファースト・ソート・ベスト・ソート
〔ラッセル:Tower Of Meaning,他〕

ラッセル(vc)ジュリアス・イーストマン(指揮),他
〈録音:1981年2月,他〉
[P-VINE(S)PCD18781(2枚組)]CD

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ミニマル・ミュージックからハウス・ミュージックまで、幅広い影響力を持つ実験的チェロ奏者ラッセル。その耽美な名曲《Tower Of Meaning》には、イーストマンが指揮で参加している。

「スラムに消えた天才ピアニスト」の発見

50年前に消えた天才少年ピアニストが、いまシスコの貧民街から衝撃のカムバック!
50年の歳月が醸成した余りにもデモーニッシュなピアニズムに、度肝を抜かれる。

———『ニレジハージ・プレイズ・リスト』[CBS・ソニー]広告キャッチコピー(『レコード芸術』1979年1月号より)

1972年のLA、69歳になったニレジハージのもとにステージ復帰を促す支持者が現れた。彼は、カリフォルニア州のピアノ・ロール愛好家たちの間で伝説の存在となっていたのだ。まずはクローズドな会合に招かれ、リストの《バラード第2番》を弾いたという。このことがカムバックの後押しにはなったが、彼自身は40年代以降に舞台恐怖症に陥っていて、死刑囚用の頭巾で顔を隠した「ミスターX」としてステージに立ったりしたほかは、ほとんどそうした機会から離れてしまっていた。

とはいえ、彼には9番目(!)の妻であるエルシーがいて、その治療費を稼ぐ必要に迫られていた。年の瀬押し詰まる72年12月17日、サンフランシスコのセンチュリー・クラブ・オヴ・カリフォルニアにて、はたして公開リサイタルは決行されたのだ。『ニレジハージ・ライヴ Vol.1』にはその全貌が収められている。翌73年5月には同じシスコの、今度はオールド・ファースト・チャーチとフォレスト・ヒル・クラブハウスでも公開演奏を行なった。

8 リスト/作品集
〔夢の中で,バラード第2番,巡礼の年 第3年~哀れならずや,別れ,2つの伝説〕

アーヴィン・ニレジハージ(p)
〈録音:1973年5月,74年9月(一部L)〉
[デズマー(M/S)OX1081]LP ※現在取扱なし

オールド・ファースト・チャーチ・ライヴの伝説的録音が収録されている。

9 ニレジハージ・プレイズ・リスト
〔ハンガリー狂詩曲第3番,モショーニの葬送,灰色の雲,ハムレット(ニレジハージ編),オラトリオ《クリストゥス》~三博士の行進(ニレジハージ編),巡礼の年 第3年~エステ荘の糸杉に 第1番〕

アーヴィン・ニレジハージ(p)
〈録音:1978年1月〉
[CBS・ソニー(S)50AC439~40(2枚組)]LP ※現在取扱なし

スタジオ録音によるニレジハージのリスト。本盤のプロモーションの一環として、『レコード芸術』1979年10月号にはカラー・グラヴィアが掲載された。

その「デモーニッシュなピアニズム」は大きな注目を浴び、やがてメジャー・レーベルからも録音の話が来るようになって、日本規格でもアルバムがリリースされた。極端なテンポ変化やダイナミック・レンジの大胆な広がり、ミスタッチを厭わない即興性の高い解釈は異形いぎょうな演奏として受け止められ、『レコード芸術』1979年1月号の岩井宏之による新譜月評では「半世紀も前、テクニッシャンで鳴らしただけのことはある。けれども、演奏全体を支配している感覚的な古めかしさは否定しようがない」とネガティヴに評されている。

当時知られていたリスト弾きには、ニレジハージと同じく「リストの再来」と称されたジョルジュ・シフラ(1921〜94)が思い浮かぶ。彼はニレジハージと同郷のハンガリー生まれであるが、その正確無比なテクニックでサーカス的な熱狂を生み出す外向性の強いピアニズムは、天使と悪魔にたとえたくなるほどの好対照を成している。

10 スタジオ録音全集1956-1986

ジョルジュ・シフラ(p)
〈録音:1956年2月~86年2月〉
[Erato(M/S)9029672924(41枚組,海外盤)]CD

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亡命直後の1956年にリリースされた10インチレコードから、86年の最後のセッションまで、シフラの、EMIとフィリップスへの全てのスタジオ録音がまとめられたBOX。

またラザール(ラーザリ)・ベルマン(1930〜2005)も「リストの再来」と呼ばれたうえに19世紀的な演奏様式であることを自認してもいたが、そのスタイルの極北を提示してみせたニレジハージの前には、凡庸というほかない。いわゆる「リスト弾き」には他に、魔術的なヴィルトゥオジティを展開するウラディミール・ホロヴィッツ(1903〜89)、哲学や知性といった言葉が似合う厳格なるクラウディオ・アラウ(1903〜91)、「現代のリスト」と評されたスヴァトスラフ・リヒテル(1915〜97)も挙げられようが、どれも20世紀流の演奏様式であって、いかにニレジハージが異形なるピアニストとして受容されたかがうかがい知れる。

しかしそんなニレジハージを、とりわけ日本のファンは愛した。1980年の5月から6月にかけてまず群馬にある高崎芸術短期大学(2008年に廃止された)の一教室で小規模に(このときの録音を収めた自主盤も制作されたようである)、さらに82年1月にはコンサート・ホールを貸し切っての来日公演が行なわれた。日本ニレハージ協会が結成され、菅原文太や井上ひさしといった文化人が賛同したといわれるほどの一大ブームに発展していく。82年1月21日の旧・第一生命ホールでの公演を宇野功芳が聴いていて、『音楽の友』1982年3月号の「演奏会批評」に「僕としては無条件に彼の演奏を謳歌するものではないが、スケールの小さい機械主義に陥った現代、ニレジハージが騒がれるのも充分にうなずける」と書いている。

それから5年後の87年4月8日、ニレジハージはLAで息を引き取った。その遍歴の激しさを思えば、84歳での逝去というのは大往生かもしれない。しかし、大西洋と太平洋をまたいで聴衆を沸かせた彼の存在は、再び忘れられることになる。

「ゲイ・ゲリラ」が生まれた日

大義があるのなら、それが偉大な大義であるならば、その大義に身を捧げる者たちは自らの血を捧げるでしょう。なぜなら、血なくして大義は成り立たないから。だからこそ、私は「ゲイ・ゲリラ」という言葉を使うのです。もしそうなるよう求められたなら、私もその一人になれるかもしれないという希望を込めて。

———1980年1月16日、《ゲイ・ゲリラ》の初演に先立って、イーストマンが聴衆に向けて述べた言葉

ニレジハージが日本に来ていた頃、イーストマンは相変わらずNYを拠点としていた。1980年1月16日にはイリノイ州のノースウェスタン大学で《ゲイ・ゲリラ》、《クレイジー・★★★》、《エヴィル・★★★》(伏せ字はNワード)の三作品を上演(恐らく公開初演)している。学生団体などから抗議を受けたために、プログラムにはタイトルが印刷されなかった。この三作はいずれも譜面上での楽器の指定がないが、ここでは四人の奏者が一台ずつのピアノを演奏するかたちで上演され、そのうちの一人をイーストマン自身が務めていた。

このうち《ゲイ・ゲリラ》について、後にイーストマンの失われた交響曲を蘇演する音楽学者ルチアーノ・チェッサ(1971~)は「イーストマンの作品のうち、この作品以外すべてが消え去ったとしても、彼が20世紀音楽史において確固たる地位を築くのに充分だろう」と評している。この評価の根拠の1つとして、マルティン・ルターの賛美歌《神はわがやぐら》が引用されていることは無視できないだろう。J.S.バッハのカンタータ第80番《われらが神は堅き砦》BWV.80や、メンデルスゾーンの交響曲第5番《宗教改革》などでも使われているメロディである。アカデミックな音楽教育を受けたイーストマンがそれを知らなかったとは考えにくい。このとき、彼は西洋芸術音楽の伝統への接続を声高に宣言しつつ、クィアの立場を神聖化することで伝統そのものに異議を申し立てる、孤高の「ゲリラ」となったのである。

11 J.S.バッハ:カンタータ第80番《われらが神は堅き砦》BWV.80,同第106番《神の時こそいと良き時》BWV.106*

カール・リヒター指揮ミュンヘン・バッハ管弦楽団,同合唱団,エディト・マティス(S)トゥルデリーゼ・シュミット(A)ペーター・シュライアー(T)ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(Bs)
〈録音:1977年2月~78年6月,66年*〉
[アルヒーフ(S)UCCA9059]CD

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《ゲイ・ゲリラ》初演と同時期に録音された《われらが神は堅き砦》。同曲は、J.S.バッハが宗教改革記念日のために書いた教会カンタータである。

12 The Zurich Concert

ジュリアス・イーストマン(p)
〈録音:1980年10月(L)〉
[New World Records(S)807972(海外盤)]配信・オンデマンドCD-R

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1980年10月25日にチューリッヒで行なわれた、70分間のソロ即興コンサートの記録。イーストマンの友人によるプライヴェート録音だったもので、2017年に公開された。

それからイーストマンは、ヴォーカル・ソロによる「前奏」と十台のチェロで演奏される「本編」から成る《ジャンヌ・ダルクの聖なる臨在》(1981)や、個人的な失恋が反映されているという即興性を取り入れつつも内省的な交響曲第2番《フェイスフル・フレンド》(1983)など、いくつもの魅力的な作品を書いた。未発見だが、第2番があるということは交響曲の第1番もあるかもしれない。「ザ・キッチン」の計らいで、スイスのチューリッヒへ行ってピアノの即興演奏を披露したこともある。

1983年にはアパートを追い出され、自作した楽譜の大半を失うという憂き目に遭うが、作曲家カイル・ガン(1955~)による『Unjust Malaise』のライナーノーツによれば、一時期はタワーレコードで働いていたらしいし、ブルックリンの劇場の客席に現れることもあったようだ。しかし彼はフェード・アウトしていった。90年5月28日、かつて奉職していた大学のあるニューヨーク州バッファロー市の病院で、イーストマンは49歳の若さでひっそりと亡くなった。ガンが雑誌に訃報を載せる8ヶ月後まで、その死はほとんど気付かれなかったという。

同じ頃の「白いイーストマン」ライヒはといえば、《18人の音楽家のための音楽》(1974~76)を完成させ、78年にはECMレーベルから同曲のアルバムをリリースしている。これにより世界的な脚光を浴びた彼は、次々にアルバムをリリースする。90年に『ディファレント・トレインズ』[ノンサッチ]で、98年には再録の『18人の音楽家のための音楽』[同]で、それぞれグラミー賞の部門賞を受賞した。後にイーストマンの音楽も同賞に関しての栄誉に浴することになるが、それは2024年まで待たねばならなかった。

13 ライヒ:ディファレント・トレインズ,エレクトリック・カウンターポイント

クロノス・クァルテット〔デイヴィッド・ハリントン,ジョン・シャーバ(vn)ハンク・ダット(va)ジョアン・ジャンルノー(vc)〕,パット・メセニー(g)
〈録音:1987年9月~10月,88年8月~9月〉
[ノンサッチ(D)WPCS16027]CD

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作曲家自身の幼少期の思い出とホロコーストの史実、それぞれにまつわる対照的な「異なる列車」を交差させた、ライヒの最高傑作の1つ。併録の《エレクトリック・カウンターポイント》にはパット・メセニーが参加している。

14 ライヒ:18人の音楽家のための音楽

スティーヴ・ライヒ&ミュージシャンズ
〈録音:1996年10月〉
[ノンサッチ(D)WPCS16028]CD

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ECM盤のリリースから20周年の節目となる1998年に発表されたアルバム。作曲家自身も参加して練り上げた円熟の演奏で、色鮮やかなジャケットよろしく、各パートがよりビビッドに、立体的に構築される。

2000年代に起きた、それぞれの復権

ニレジハージとイーストマン。クラシック音楽界のダークサイドをフォルティッシモで駆け抜けた二人の音楽家はさまざまなチャンスとすれ違いながら、かくして忘れられた。しかし2000年代に入り、ほぼ同時期に注目が集まりはじめた。先鞭がつけられたのはイーストマンの方だった。

15 Unjust Malaise
〔イーストマン:ステイ・オン・イット,ジャンヌ・ダルクの聖なる臨在,ゲイ・ゲリラ,他〕

ジュリアス・イーストマン(p)他多数
〈録音:1973年12月,79年2月,80年1月(L、一部情報不明)〉
[New World Records(S)806382(2枚組,海外盤)]配信・オンデマンドCD-R

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生前の貴重な自作自演録音をあつめる、2005年にリリースされた記念碑的アルバム。1980年1月16日のノースウェスタン大学での《ゲイ・ゲリラ》《クレイジー・★★★》《エヴィル・★★★》初演の模様と、冒頭のスピーチも収録されている。

2005年、アルバム『Unjust Malaise』がNew World Recordsからリリースされる。生前のイーストマンと交流のあった作曲家メアリー・ジェーン・リーチ(1949~)の主導で楽譜や音源が収集され、彼女自身がプロデューサーとなり、音源の方をCD化したのだ。イーストマンの音楽が広く知られる契機となったのはもちろん、曖昧な記譜のために再演が難しかった作品群について、楽譜と録音の両面から検証できる大きな一歩となった。リーチはイーストマンについての初の本格的な評伝『Gay Guerrilla: Julius Eastman and His Music』の編者も担っている。この本は2015年にUniversity of Rochester Pressより刊行された。日本語版はまだない。

『Unjust Malaise』のリリースから2年後の2007年、今度はニレジハージの再評価が、ケヴィン・バザーナによる伝記『失われた天才:忘れ去られた孤高の音楽家の生涯 Lost Genius: The Story of a Forgotten Musical Maverick』がMcClelland & Stewartから出たことで始まった。この書籍は10年に春秋社から鈴木圭介の翻訳による日本語版も刊行されたが、現在は絶版のようだ。翌08年にはMusic and Artsから未発表録音の一部がリリースされている。

ニレジハージは作曲もしていた。その作品数は2000を超えるといわれる。そんな「作曲家」としての顔を再発見する試みも重要だ。これまでサティやグラス、さらにムーンドッグを入れるなど、独創的な音源制作を行なってきた1989年生まれの注目ピアニスト、フランソワ・マルディロシアンは2025年リリースのアルバム『Sources Inconnues』にその作品を入れている。

16 In Performance 1972-1982
〔リスト:2つの伝説,巡礼の年 第2年 イタリア~第6曲〈ペトラルカのソネット第123番〉,シューベルト:さすらい人 D 489(ニレジハージ編),ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番~第2楽章 アダージョ・ソステヌート(ニレジハージ編),他多数〕
アーヴィン・ニレジハージ(p)
〈録音:1936年,72~82年(一部L)〉
[Music & Arts(M/S)M&A1202(2枚組,海外盤)]CD ※現在取扱なし
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高崎公演の録音を含む、さまざまな貴重音源が収録された盤(音質が劣悪なものも多い)。最終トラックには、キャメロン・オーデイ・マクファーソン作曲による《The Deserted Garden》を1936年に演奏した録音も収められている。

17 Sources inconnues
〔ヒルデガルト:愛は全てに宿り,カルロス:時計じかけのオレンジ,ニレジハージ:ベートーヴェンの「熱情」をコンサートで演奏することの恐怖,アンダンテ、イシリアル,ローズマリー・ブラウン:グルベライ,他〕

フランソワ・マルディロシアン(p)
〈録音:2024年4月~5月〉
[Ad Vitam(D)AV250715(海外盤)]CD ※現在取扱なし
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マルディロシアン自身が「異端児たちのコレクション」と呼ぶアルバムで、音が音楽に変容するさまざまな試みを提示する意図があるという。Sources inconnuesは直訳すると「未知の源泉」である。

「作曲家」といえば、そもそも作曲で名高いイーストマンの作品はニレジハージよりも新しい演奏・録音が活況だ。代表曲《ステイ・オン・イット》《フェミニン》《ゲイ・ゲリラ》を演奏したものから、UKの電子音楽家、ロレイン・ジェイムスが諸作品を再構築したものまで、いろいろある。交響曲第2番《フェイスフル・フレンド》(1983)の楽譜の発見も大きな影響を与えている。18年、ルチアーノ・チェッサが指揮するニューヨーク・フィルが蘇演(初演かもしれない)したこの単一楽章の作品には、いずれも配信限定だが、現時点でさっそく二つの録音を確認できる。今後、日本初演が行なわれる日も近いかもしれない。

18 イーストマン:交響曲第2番《フェイスフル・フレンド》,チャイコフスキー:交響曲第2番《小ロシア》

フランツ・ウェルザー=メスト指揮クリーヴランド管弦楽団
〈録音:2023年4月(L)〉
[The Cleveland Orchestra]配信

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現時点で確認できる《フェイスフル・フレンド》の世界初録音。この作品にもイーストマン特有の偶然性を取り入れた手法があり、演奏者の判断によって演奏時間は12分から20分まで(!)変動する。本録音では約13分半である。同性愛者として知られるチャイコフスキーとのカップリングにも意味深さを感じるアルバムである。

19 Dalia’s Mixtape
〔キャロライン・ショウ:ジ・オブザーバトリー,イーストマン:交響曲第2番《フェイスフル・フレンド》,小出稚子:揺籠と糸引き雨,他〕

ダリア・スタセフスカ指揮BBC交響楽団
〈録音:2024年8月(L)他〉
[Platoon]配信

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「開放性」をキーワードに、人間どうしを結びつけるような現代音楽のオーケストラ作品を集めたアルバム。BBCプロムスでのUK初演を収めた《フェイスフル・フレンド》の演奏時間は約14分である。

再評価は単なるマニアックなブームか?

『ニレジハージ・ライヴ』Vol.1が最初にリリースされた際のプロモーション映像(ソネット・クラシックス公式YouTube)

2017年4月、1972年の復帰リサイタルのライヴ録音『ニレジハージ・ライヴ』のVol.1がソネット・クラシックスから発売された。既出音源ではあるが、デジタル・リマスタリングの恩恵により、音質面が劇的に改善されることになった。澤渡朋之氏が主宰する同レーベルは自作曲の楽譜の出版にも尽力する、現在のニレジハージ・ルネサンスの最前線を行く存在である。この『ニレジハージ・ライヴ』シリーズはリリースを重ね、Vol.2が20年に出ている。そして今年26年の3月、Vol.3と4の新規リリースとあわせて全4巻が揃ってラインナップされたのだ。ライナーノーツにはバザーナの評伝の内容も多く盛り込まれている。現時点でニレジハージを聴いてみたいひとは、まずこのシリーズをチェックするべきだ。

20 ニレジハージ・ライヴ Vol.1
〔リスト:メフィスト・ワルツ第1番《村の居酒屋での踊り》,ショパン:マズルカ ロ短調 Op.33-4,ブラームス:ピアノ・ソナタ第3番,他〕

アーヴィン・ニレジハージ(p)
〈録音:1972年12月17日(L:サンフランシスコ)〉
[ソネット・クラシックス(S/一部M)SONCLA002(2枚組)]CD

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1972年、ほぼ50年の沈黙を破り行われた復帰リサイタル。ショパンやブラームスの録音は、彼にしては非常に珍しいものである。

21 ニレジハージ・ライヴ Vol.2
〔リスト:悲しみのゴンドラ(第2稿),ブラームス:4つの小品 Op.119~ラプソディ,スクリャービン:ピアノ・ソナタ第4番,他〕

アーヴィン・ニレジハージ(p)
〈録音:1973年5月24日,84年10月(以上L:サンフランシスコ)〉
[ソネット・クラシックス(S/一部M)SONCLA005(2枚組)]CD

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1973年のフォレスト・ヒル・クラブハウス・ライヴを収めた盤。併録トラックとして、私邸で収録された彼のラスト・レコーディングとされるプライヴェート音源が入っているほか、フォトブック「ニレジハージ・イン・ジャパン」も必見だ。

22 ニレジハージ・ライヴ Vol.3
〔リスト:2つの伝説~小鳥に説教するアッシジの聖フランチェスコ,波の上を渡るパオラの聖フランチェスコ,ドビュッシー:レントより遅く,他〕

アーヴィン・ニレジハージ(p)
〈録音:1973年5月6日(L:サンフランシスコ)〉
[ソネット・クラシックス(M)SONCLA007(2枚組)]CD

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1973年オールド・ファースト・チャーチ・ライヴの収録盤。このリサイタルが、ニレジハージ・ルネサンスの決定的な引き金とされる。

23 ニレジハージ・ライヴ Vol.4
〔リスト:巡礼の年第2年《イタリア》~ダンテを読んで,超絶技巧練習曲第4番《マゼッパ》,シューベルト:さすらい人幻想曲 D760,他〕

アーヴィン・ニレジハージ(p)
〈録音:1973年7月23日(L:ノヴァト),21~24年(Ampicoピアノ・ロール)〉
[ソネット・クラシックス(S/一部M)SONCLA008]CD

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1973年のノヴァト・ライヴを収める。ニレジハージ絶頂期にあたる1920年代前半のピアノ・ロール録音も収録されている、あまりにも貴重なアルバムである。

一方、イーストマン再評価で重要なのが、指揮者クリストファー・ラウントリー(1983~)とその手兵「ワイルド・アップ」による、全7巻を計画中だという録音プロジェクト「ジュリアス・イーストマン・アンソロジー」である。このうち『Vol. 3: そんなに賢いなら、なぜ金持ちじゃないんだ?』が24年の第66回グラミー賞にノミネートされたことでも、大きな話題を呼んだ。

そして、今年の26年の7月、この第5巻にあたる『イーストマン:ゲイ・ゲリラ』のCDが、なんと日本規格でリリースされたのだ! イーストマンのアルバムが日本規格で出るのは、私の知るかぎりロレイン・ジェイムスの『Building Something Beautiful For Me』[Plancha / ART UNION]に次いで二番目である。これを注目盤といわずして、なんといおう。

24 イーストマン/作品集 Vol. 1~4
〔ステイ・オン・イット、フェミニン,そんなに賢いなら、なぜ金持ちじゃないんだ?,ジャンヌ・ダルクの聖なる臨在,他多数〕

クリストファー・ラウンツリー(音楽監督)ワイルド・アップ,他
〈制作:2021年~24年〉
[New Amsterdam Records]配信
※ジャケ写とリンクは「Vol.1 Femenine」のもの

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Discogsを参照すると、CD版も自主盤のかたちで出ていたようだが、現在は配信でのアクセスが容易だ。アートワークで溺れたりしているのはイーストマンそのひとで、これらの写真は1975年頃に撮影されたようだ。

25 イーストマン:ゲイ・ゲリラ

クリストファー・ラウンツリー(音楽監督)ワイルド・アップ
〈制作:2026年〉
[ニュー・アムステルダム・レコード(D)NWAM207CDJ]CD

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「イーストマン/作品集」のVol.5で、これが最新盤となる。またワイルド・アップのサイトでは、Vol.1から5までの各アルバムについてのステートメント(英語)も公開されている。

ラウントリーはカリフォルニア生まれで、ミシガン大学などで指揮を学んだあとの2010年、LAに現代音楽コレクティヴ「ワイルド・アップ」を創設した。ロス・フィルやLAオペラといったトラッドな団体とも盛んにコラボレーションをしながら、ポップ・カルチャーやパフォーミング・アーツの文脈へも接続するような、型破りなプログラミングを展開して人気を博している、西海岸でいまいちばん熱いグループの一つなのだ。

そんな彼らが、高い評価を得るイーストマン演奏で重視しているのが「対話」である。前述したようにイーストマンの記譜は曖昧なものだが、そこにきわめて有意義な可能性を見出しているというのだ。

レコーディングされた演奏には、イーストマンが示した具体的な指示を厳格に守る姿勢と、アンサンブルのなかで個々の演奏者やグループ全体がそれぞれに判断することを受け入れる姿勢が融合しています。そこには、イーストマン、個々の演奏者、そしてグループ全体という三者による、絶え間ない対話があるのです。

———ワイルド・アップによるステートメントより

ワイルド・アップによる《ステイ・オン・イット》の演奏風景(NPR Music公式YouTube)

思えば、指揮者でチェリストのニコラウス・アーノンクール(1929~2016)が1984年の著書『音楽は対話である Der musikalische Dialog』そして自身の音楽表現で重視したのも、また「対話」であった。奇妙な共通項である。ここで一つの疑問が浮かぶ。ニレジハージとイーストマン、この二者にまつわる再評価の潮流は「かつて正当な評価を得られなかった、風変わりな音楽家」にまつわるマニアックなブームとして、単純に理解してしまってよいだろうか?

というのも、ニレジハージが一度目の再登場を遂げた1970年代は、まさにアーノンクールが登場してHIP(Historically Informed Performance)を牽引し、聴衆やレコード業界(そしてもちろん演奏家も)が客観主義一辺倒だったモダン的演奏の画一性に疑問を抱きはじめた時期と一致する。シェーンベルクの言葉を借りれば、そのときニレジハージの「表現」そのものな演奏スタイルは、「スラム街に消えた」エピソードに由来する判官贔屓もあったかもしれないが、強烈なオルタナティヴとして熱狂的に迎え入れられたのだ。

一方、イーストマンの音楽が世界中で急速に注目を集め、BBCプロムスなどでも演奏されているのは、DEI(多様性・公平性・包括性)やBLM(Black Lives Matter)も背景に見出せるかもしれないが、現代の音楽界が、演奏者・作曲者の個人的なナラティヴを尊重するようになり、彼の「自分という存在を最大限に生きる」芸術を受け入れる素地が完成したことも無視できないだろう。イーストマンの音楽は、ポリティカルな抵抗と解放のエネルギーとして、そしてきわめてアクチュアルなものとして受け容れられている。

現代は、アーノンクールの最も過激な後継者ともいえるテオドール・クルレンツィス(1972~)や、知性と本能で道なき道を突き進むパトリツィア・コパチンスカヤ(1977~)にみられるような、楽譜の背後にある感情や劇的な効果を超・主観的に表現する演奏スタイルが、世界中で高く評価される時代となってさえいる。かのごとき大きな潮流を背景として、無理解を意に介さずに示された二人の叫びが、多くのひとの心を揺さぶっている。こうは考えられないだろうか?

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