

▲①トビアス・クラッカー演出《タンホイザー》ゲルギエフ指揮バイロイト祝祭2019年ライヴBD[DG(D)735760] ②カタリーナ・ワーグナー演出《ニュルンベルクのマイスタージンガー》ヴァイグレ指揮バイロイト祝祭2008年ライヴBD[Opus Arte(D)OABD7078D]
「特別企画《ニーベルングの指環》初演150年&バイロイト祝祭創始150年」もいよいよ大団円を迎えます。今回はワーグナーの達人——新野見 卓也(音楽批評・ピアニスト)吉田 真(ドイツ文学・音楽評論)光野 正幸(ドイツ文学)——3氏に、編集部から共通の5つの質問状【Q.1~Q.5】を投げかけ、それぞれに持論を展開いただきます。「序夜と三日間の舞台祭典劇」の名にあやかって、全4回構成でお届けいたします(今回【Q.1】の配信は「序夜」に当たり、手はじめに三者三様の「バイロイト体験」を披露いただきます)。
【Q.1】これまでで最も印象深いバイロイト体験は?(複数回答可)
新野見:クラッツァー演出の《タンホイザー》に完全にヤラれた
おそらく私は3人の回答者の中で一番バイロイト歴が浅いと思うので、過去の伝説的な演奏を知っているというわけではなく、最近の上演より、ということになりますが、その中で思い出深いのは2019年の《タンホイザー》です。現在、飛ぶ鳥を落とす勢いのトビアス・クラッツァーによる新制作でした。この演出は当のバイロイト祝祭に対する批判的視点を持ち合わせていますが、それはなにも恣意的にもちこまれたわけではなく、《タンホイザー》という作品に内在する対立構造やテーマに実にうまく重なり合っています。エンタテインメント性と高度な政治性を併せ持つこの演出は、バイロイト史上21世紀初頭を代表する演出といえるのではないでしょうか。
名演出の誕生と同時に、リーゼ・ダヴィッドセンがエリーザベトを歌いバイロイト・デビューを果たしたこともこの年の上演が印象深く感じられる理由のひとつです。第2幕冒頭 “Dich, teure Halle” の第一声が祝祭劇場に響き渡ったときの衝撃! その後の彼女の活躍ぶりはここで確認するまでもないでしょう。
指揮はゲルギエフで、彼もまたこの年がバイロイト・デビューでした。その後「西側」の音楽界から彼の名前が消えてしまったことはご存じのとおりです。またこの翌年2020年はコロナ・ウィルスのパンデミックの影響で、音楽祭自体が中止となりました。こうした事情が重なり、振り返ると、ちょっと別の世界のことのように思えてします。
この演出は確固たる評価・人気を得て、ロングランとなりましたが、初演時から2022年までタイトル・ロールを担っていたのはステファン・グールドでした。還暦に差し掛かろうという時にあって、歌手としてますます成熟してゆくその姿に世界中のワグネリアンたちが頼もしさを覚えていたと思います。そんなまさにキャリアの絶頂にあるかと思われた2023年、グールドはこの年体調不良を理由に音楽祭を降板しました。そして閉幕とともに自身の病状を発表したかと思うと、まもなく帰らぬ人となってしまいました。翌2024年のこの《タンホイザー》の上演では、序曲の間に流れるロードムービーに、グールドに献杯するシーンが挿入されました。客席からは演奏中にもかかわらず拍手が巻き起こり、このヘルデンテノールがいかに愛されていたかがわかる、感動的な瞬間でした。そしてその気持ちの高まりのなか、序曲はクライマックスに突入し、シュトゥッツマンの大胆な指揮がヴェーヌス賛歌を響かせます。完全にやられました。涙腺崩壊です。(新野見 卓也)
吉田:21世紀初頭までは演出よりも音楽面に関心が集まっていた
「最も印象深い舞台は?」と問われて、現代のバイロイトでは演奏よりも演出の話になってしまうのが困ったところです。上演の良し悪しは別として、一番は2007年、カタリーナ・ワーグナー新演出の《ニュルンベルクのマイスタージンガー》ですね。これは1951年から57年間バイロイト祝祭総裁を務めてきたヴォルフガング・ワーグナーの勇退と娘のカタリーナ新総裁就任を翌年に控え、29歳の彼女の初仕事ということで注目を集めていたものです。
おそらくヴォルフガングは親心で、最も成功率の高い《マイスタージンガー》を愛娘に委ねたのだと思いますが、娘は親の期待に反して作品批判的な新演出を行なって観客を驚かせました。初年度だったので終演後のブーイングは凄まじいもので、おそらく1976年のシェロー演出の《指環》以来のことだったでしょう。ただし演出の質は必ずしも高いとは言えず、《マイスタージンガー》であれば、2017年のバリー・コスキー演出や、2013年にザルツブルク祝祭で行なわれたステファン・ヘアハイム演出の完成度に遠く及びません。音楽面でも指揮者のヴァイグレやヴァルター役のフォークトも当時は未熟でしたし、後にザックス役で成功するミヒャエル・フォレのベックメッサーだけが記憶に残っているぐらいです。
《指環》では同じような意味で2013年のフランク・カストルフ演出でしょう。これは演出家自身も語っていたように、音楽を全く無視して作品を強引に自分の世界に引き込み、開き直ったような舞台でした。ただし指揮者のキリル・ペトレンコには驚かされました。すでにバイエルン国立歌劇場の音楽総監督就任が決まっていたのですが、私は初めて聴く指揮者で、内声部のバランス・コントロールに非常に独特なものがあり、さんざん聴いてきたはずの《指環》にまだこんな発見があることに随所で気づかされたものです。カストルフ演出は2017年にも観ましたが、指揮者がヤノフスキに代わっていました。当時はすでに演出家主導の舞台上演を嫌ってコンサート形式の公演ばかり指揮していましたが、バイロイトで《指環》を指揮するという誘惑には勝てなかったのでしょうね。ペトレンコとは対照的に職人的な手堅い指揮に徹していて、皮肉にも即物的なカストルフ演出には合っている感じがしました。歌手では初年度から一貫してブリュンヒルデを歌っていたウェールズ出身のキャサリン・フォスターとジークフリートのシュテファン・フィンケが傑出していました。
2001年はバイロイトにデビューしてまだ2年目だったティーレマンが、ヴォルフガング・ワーグナー演出の最後の《マイスタージンガー》と《パルジファル》を任され、1963年(カール・ベーム指揮)以来のベートーヴェンの《第九》の指揮も担うという活躍ぶりでした。前年ユルゲン・フリムによる新演出になったばかりの《指環》では、プレミエを指揮したシノーポリが急死したため、アダム・フィッシャーが指揮して賞賛を浴びました。この頃はバイロイトでも、まだ音楽的な関心が演出よりも上回っていたように思います。歌手陣では前年歌ったガブリエーレ・シュナウト(ブリュンヒルデ)、プラシド・ドミンゴ(ジークムント)、ヴァルトラウト・マイアー(ジークリンデ)がそろって降板したのですが、ルアーナ・デヴォル、ロバート・ディーン・スミス、ヴィオレータ・ウルマーナがそれぞれ立派に穴を埋めたのも印象に残っています。
これは余談になるのですが、私が初めてバイロイトを訪問したのはドイツ留学中の1984年の2月のことで、誰もいない冬の祝祭劇場を初めて見た感激は忘れられません。そのときは特別に劇場の中に入れてもらい、客席や地下のオーケストラピットを自由に見せてもらいました。当時はまだフォワイエにクナッパーツブッシュの胸像があったものです。「鉄のカーテン」が降ろされた舞台では、ちょうどポネル演出の《トリスタンとイゾルデ》の舞台装置の修理をしていました。(吉田 真)
光野:バレンボイム、シノーポリ、レヴァインが並び立った1992年
私がバイロイト祝祭に初めて出かけたのは1992年で、それから2001年と2009年の計3回、いずれも8月に、それぞれその年の上演演目をすべて鑑賞することができました。どの年が最も印象深い体験として記憶に残っているか、と問われても簡単に答えることは難しいのですが、強いて挙げるとすれば、やはりバイロイト初体験だった1992年、ということになるでしょうか。
ハリー・クプファー演出、バレンボイム指揮の《ニーベルングの指環》(1988年の新演出で、92年が最後の年でした)をはじめ、ディーター・ドルン演出、シノーポリ指揮の《オランダ人》やレヴァインが振った《パルジファル》など、舞台の様子が今までも鮮やかに脳裡に蘇ってきます。
それから、これは半ば余談になりますが、1993年の7月、当時ミュンヘンに駐在していた友人の仲介で、この年の音楽祭の「目玉」ともいうべき劇作家ハイナー・ミュラーによる新演出《トリスタンとイゾルデ》のゲネプロのチケットを入手する、という僥倖に恵まれました。衣裳を担当した山本耀司氏のために用意されたチケットだったらしいのですが、彼が来られなくなったということで、在ミュンヘン日本領事館から友人経由で廻ってきたのでした。ミュンヘンから友人の車で当日バイロイトへ向かい、終演後ただちにミュンヘンへ帰還するという強行軍でしたが、この時のタイトルロールの二人——ジークフリート・イェルザレムとヴァルトラウト・マイアー——に第1幕で首枷を嵌めたヨウジヤマモトの衣裳に籠められた寓意には、感心させられたものでした。(光野 正幸)


▲③ステファン・ヘアハイム演出,ガッティ指揮ザルブルク音楽祭2013年ライヴBD《ニュルンベルクのマイスタージンガー》[EuroArts(D)2072683] ④ハイナー・ミュラー演出,バレンボイム指揮バイロイト祝祭1994年ライヴDVD《トリスタンとイゾルデ》[DG(D)0734439]
……以下、次回以降(第1日~第3日)に続く
●8月2日 配信【Q.2】《指環》を聴く/観る際のこだわり注目(聴きどころ)ポイントは?
●8月3日 配信【Q.3】常に賛否両論がある「読み替え演出」の功・罪をどう捉える?【Q.4】巷間ワーグナー歌手/指揮者が小粒になったとの声も聞くが、その実情は?
●8月4日 配信【Q.5】理想の《指環》全曲ディスク、また《指環》以外の1演目の理想のディスクは?
新野見 卓也(にいのみ・たくや)
ピアニスト・音楽批評家。国際基督教大学(ICU)卒業、一橋大学大学院言語社会研究科修了後、リスト音楽院(ブダペスト)に留学。現在ハンガリー国立バレエ学校でピアニストを務めつつ、音楽批評家として雑誌・webサイト等に寄稿している。「レコード芸術ONLINE」新譜月評レギュラー執筆者。2022年にワーグナーのピアノ作品を収めたCD『Schmachtend』をリリース。好きなものはコーヒー、ケーキ、ワーグナー。
吉田 真(よしだ・まこと)
慶應義塾大学大学院文学研究科独文学専攻博士課程単位取得。明治学院大学教授、慶應義塾大学講師、日本大学芸術学部講師。専門はドイツ文学、特にワーグナー研究。著書・共訳書・監訳書に『作曲家・人と作品ワーグナー』『ワーグナー王朝』(音楽之友社)、『バイロイト祝祭の黄金時代』『ヒトラーとバイロイト音楽祭』(アルファベータ)など。「レコード芸術ONLINE」では2025年2月~12月『週刊フィッシャー=ディースカウ』を連載。
光野 正幸(みつの・まさゆき)
東京外国語大学ドイツ語学科卒、東京大学人文科学研究科独語独文学専攻博士課程(中退)、同大学助手を経て、武蔵大学人文学部教授。専門はE.T.A.ホフマンとドイツ・ロマン主義文学、ワーグナー、R.シュトラウス他のドイツ・オペラ。共著書『ドイツ文学―歴史のなかで文学の流れをみる』(放送大学教育振興会)、共訳書『ウィリアム・マン/リヒャルト・シュトラウスのオペラ』(第三文明社)ほか。現在、武蔵大学名誉教授。
