NHK交響楽団創立100年特別企画

N響に登場した巨匠指揮者列伝
第1回 ロヴロ・フォン・マタチッチ

N響に登場した巨匠指揮者列伝特別企画
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創立100年を迎えたNHK交響楽団の歴史は、巨匠指揮者たちとの出会いの歴史でもあります。本連載では、N響の舞台を彩った名匠たちを各回一人ずつ取り上げ、その人物像、芸術の真価、そしてN響との代表的録音までを総覧。演奏会の記憶とディスクを結び付けながら、日本のクラシック音楽史の豊かな系譜を読み解いていきます。【第1回は全文無料公開】

Text=満津岡 信育(音楽評論)

2026年が創立100年の節目の年にあたるNHK交響楽団(以下N響)の場合、新交響楽団や日本交響楽団という名称だった時代を含めて、それこそ、さまざまな指揮者との出会いがあった。戦前であればジョセフ・ローゼンストック、1959/62年にはウィルヘルム・シュヒターといった具合に、N響のアンサンブルをさらに引き上げたマエストロたちもいた。もちろん、N響の楽団員から敬愛された数々の名指揮者たちも忘れてはならないだろう。何人かの書き手が担当する当シリーズにおいて、筆者の担当分に関しては、実演に接したことがある名指揮者について書いていきたいと思う。

ロヴロ・フォン・マタチッチ(1899~1985)

写真提供:NHK交響楽団

1965年、《ボリス・ゴドゥノフ》で始まったN響との蜜月

ロヴロ・フォン・マタチッチが、初めてN響の公演を指揮したのは、1965年9月4日のこと。それは、NHK放送開始40周年を記念して、ザグレブ国立歌劇場の歌手や合唱団を中心にした「スラブ歌劇」のプロダクションであり、演目は、ムソルグスキーの歌劇《ボリス・ゴドゥノフ》であった。これは、N響とマタチッチの双方にとって、衝撃的な出会いとなり、ここから、1984年3月24日の第927回定期公演Cプログラムに至るまで、20年近くにわたる関係が続くことになる。

マタチッチとN響の実演は、今なお、語り継がれているものがいくつもある。「スラブ歌劇」の公演は、聴衆はもちろんのこと、楽団員や音楽評論家にとっても驚きそのものであったようだ。N響機関誌『フィルハーモニー』1970年10月号には、「マタチッチさんを語る」という座談会が掲載されており、ムソルグスキーの歌劇に通じていなかったN響が、マタチッチのもとで渾身のサウンドを発し、そして、ボリスが亡くなる場面では、涙を流しながら演奏を続けたメンバーがいたことが記されている。ホルンの千葉馨は、“あの太いからだが全部指揮棒なんです。魔力というか、圧力というか、人に風を与えるのです”と語り、コンサートマスターの田中千香士は、“人間的な迫力はあるが、緊張を押し付けることなく、こちらに任せてくれます”と語っている。サヴァリッシュが“楷書体“であるのに対して、マタチッチは“草書体”であると評されているのも興味深い。マタチッチは、N響から壮大なスケール感と重厚な響きを引き出し、そのうねりに富んだ音楽づくりで、音楽ファンを魅了した。「スラブ歌劇」以降、マタチッチは、1966年末から翌67年1月にかけてN響の指揮台にのぼり、1969年まで、毎年来日し、1967年には、N響から名誉指揮者の称号を贈られている。その後も、1971年、1973年、1975年、1984年にN響を指揮している。

写真提供:NHK交響楽団

逆境から甦った巨匠

ロヴロ・フォン・マタチッチは、1899年2月14日、現在のクロアチアのスシャク生まれ。幼くして宮廷礼拝堂少年合唱団(現在のウィーン少年合唱団)に入団し、さらにウィーン高等音楽学校で音楽を学んだ。『フィルハーモニー』誌1967年2月号の「ロヴロ・フォン・マタチッチさんにきく」に拠れば、ウィーンでは、指揮法を作曲家のオスカル・ネドバルに師事したが、その際に、“どういうふうに指揮をすべきかということは、とても教えることはできない。わたくしにできることは、指揮をする場合に、こういうことをしてはいけない、としか教えることができない”と言われたことを紹介している。15歳の時に作曲した、3楽章から成る管弦楽曲が、トーンキュンストラー管(指揮はパウムガルトナー)によって初演され、1919年にケルン歌劇場の合唱指揮者として、プロの音楽家としてスタートを切り、現在のスロベニアのリュブリャーナや現在のクロアチアのザグレブで活動。1938年には、現在のセルビアのベオグラード・オペラの音楽総監督およびベオグラード・フィルハーモニー管弦楽団の指揮者に就任したが、第二次世界大戦後は、ユーゴスラビアで活動の場を失った。 

マタチッチは、ドゥブローヴニークとスプリトの音楽祭の創設に尽力して活動を再開し、1950年代半ばから、再び西側でも指揮をするようになったが、その際に後押ししてくれたのは、カラヤンであった。『フィルハーモニー』誌のインタヴューでは、“これは、是非いっておきたいことなんですけど、ひとりの指揮者(カラヤン)がこんな風に別の指揮者を助けて、仕事を与えるということは、この世界では、非常に珍しいことなんです”と語っている。こうして、1956年から58年まで、ドレスデン国立歌劇場の音楽総監督を務め、コンヴィチュニーと共同でベルリン国立歌劇場の音楽総監督も歴任。1958年にはミラノ・スカラ座に、1959年にはバイロイト音楽祭に登場し、カラヤンの盟友であった名プロデューサーのレッグのもとで、旧EMI(現ワーナー)にレコーディングを残し、1961年からはフランクフルト市立歌劇場の音楽総監督を務めている。

N響の指揮台にたびたびのぼるようになってからも、マタチッチは、1970年代前半まで、ザグレブ・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者を務め(後に終身指揮者)、1974年からモンテカルロ国立歌劇場の音楽総監督を歴任。また、チェコ・フィルハーモニー管弦楽団と密接な関係を結び、チェコのレーベルにブルックナーやチャイコフスキーなどのレコーディングを残している。

うねり、歌い、燃え上がるマタチッチ節

マタチッチは、あるインタヴューの中で、“私は、ブルックナーとワーグナーが一番好きだ”と語っている。N響との唯一のセッション録音は、「ワーグナー管弦楽曲集」[①]である。これは2025年春にSACDハイブリッド盤がリリースされ、その豪快でうねりに富んだサウンドがさらに迫真的になっている。また、《ローエングリン》第1幕への前奏曲で顕著なように、各パートを精緻に撚りあわせつつ、高貴で香り高い響きを引き出すなど、マタチッチの手腕を改めて実感することができる。前出の「マタチッチさんを語る」には、この盤では、海野義雄が急病のため、コンサートマスターが田中千香士に変わったこと、そして、エンジニアからのリテイクの要請に、“どうして、どこが悪いんだ。ひとつの傷くらいならいい”とマタチッチが答えたという話が掲載されている。マタチッチは、音楽の迫真的な流れを大切にしており、チェロの小野崎純は、“音楽をつくってやっている感じじゃなくて、あの人自体が音楽として存在するといったら変ですけれど、そういうような感じですね”と語っている。大柄で頑健であったマタチッチの存在感は、演奏会場で際立ったものがあったとはいえ、視覚情報抜きのライヴ録音のディスクにおいても、はっきりと感じ取ることができる。

マタチッチとN響によるライヴ録音のディスクは、かなりの数がリリースされている。彼らが出会った《ボリス・ゴドゥノフ》に関しては、初日の公演のライヴ録音[②]が、2016年秋にようやく発売され、伝説の名演を実際に耳で確かめることができるようになった。ザグレブ国立歌劇場の合唱団やチャンガロヴィチのボリスなど、この作品をレパートリーに入れていた声楽陣の求心力に富んだ歌唱に対して、マタチッチが指揮するN響は、各パートが持てる力を振り絞ってR=コルサコフ版特有の絢爛たる響きを発し、ムソルグスキーの土俗的な迫力に満ちたサウンドを打ち出している。なるほど、これが大評判になったのは、もっともなことだ。

1966年から1975年のライヴ録音については、キングインターナショナル[③]やAltus[④]からディスクがリリースされていた。マタチッチは、当初、“スラブの怪人”と呼ばれたこともあるなど、ロシアや東欧圏などのスラブ音楽を得意にする一方で、ベートーヴェン、ワーグナー、ブルックナー、ブラームスも高く評価された。③であれば、《ハーリ・ヤーノシュ》組曲では、縦線がずれるのもおかまいなしに、ツィンバロンを奔放に奏させつつ、主旋律を歌い上げ、重厚で粘り気のある表現を行い、《火の鳥》組曲では、1945年版をチョイスしながら、〈プロムナードⅡ〉と〈プロムナードⅢ〉をカットし、両曲のひとつ前のナンバーは、スコアに併記されている「演奏会用のエンディング」を用いつつ、剛毅でスケールの大きな演奏を展開している。④では、ブルックナーの5、7、8番にしろ、ブラームスの1&3番にしろ、音楽が豊かにうねっているのが印象的。ネドバルに師事したマタチッチの雄弁な語り口に富んだスメタナの《わが祖国》もすばらしい。「マタチッチさんを語る」に拠れば、涙が出て来て泣きながら演奏した人が多くいたという。

マタチッチは、若き日にウィーンで学んだ経験があり、いわゆるドイツ・オーストリアの伝統をしっかりと身に着けたうえで、独自の個性を形づくったマエストロであることが、③や④、さらには、キングレコードから出た⑤や⑥のライヴ録音などを通じて実感することができる。

①ワーグナー/管弦楽曲集
〈録音:1968年9月〉
[日本コロムビア(タワーレコード)(S)TWSA1182]SACDハイブリッド

②ムソルグスキー:歌劇《ボリス・ゴドゥノフ》全曲
〈録音:1965年9月(L)〉
[Altus(S) ALT353~5]

③ウェーバー:《魔弾の射手》序曲,ワーグナー:《リエンツィ》序曲,同:《さまよえるオランダ人》序曲,他
〈録音:1969年5月~75年12月(L)〉
[キング(S)KKC2026~7]

④マタチッチ&N響 ステレオ・ライヴ大集成
〈録音:1967年1月~75年12月(L)〉
[Altus(S)ALT338~49]

⑤ブルックナー:交響曲第9番[原典版]
〈録音:1968年9月(L)〉
[NHK・CD(S)KICC3070]

⑥チャイコフスキー:交響曲第6番《悲愴》,ボロディン:歌劇《イーゴリ公》~だったんの娘たちの踊り/だったん人の踊り*
〈録音:1967年1月.69年5月*(L)〉
[NHK・CD(S)KICC3074]

N響の楽団員から敬愛されたマタチッチは、現在よりも、往年の楽隊気質が濃厚に残っていたこともあり、“マタ公”と呼ばれるようになり、練習の合間には指揮者控室に戻らず、廊下のソファに腰を下ろし、お酒を飲みながら、楽団員と談笑し、時には彼らと近くのレストランでランチを楽しんだとも伝えられている。“お酒好き”、“女性好き”、“金銭に無頓着”でありながら、指揮台にのぼると、巨体から音楽そのものがあふれ出て、とてつもなくスケールの大きな名演を繰り広げたのである。

写真提供:NHK交響楽団

1984年、巨匠とN響の最後の春

先ほども触れたようにマタチッチとN響のセッション録音は、一枚しかないのだが、筆者がクラシック音楽に親しむようになった1970年代半ばには、チェコ・フィルとの一連のLP録音を通じて、巨匠としての評価が定まっていた。1975年以降、マタチッチは、健康状態の問題もあり、来日が途切れていただけに、1984年のN響への客演は、大きな話題となり、NHKホールに詰めかけた聴衆の熱気はすさまじいものがあった。筆者は、第926回定期公演Bプログラム(NHKホール)を聴きに出かけたが、3階席の後方ということもあり、年老いたマタチッチの指揮姿は、巨体がゆらゆらしていたという程度しか認識できなかった。マタチッチ自作の《対決の交響曲》[⑦]は、十二音技法も活用し、無調にも果敢に踏み込んだ作品であり、第3楽章のリズム音型は不規則であった。マタチッチはこの時点で、しっかりとリズムを振り分けることができなかったので、“泳ぐ真似でもしていてください”と進言して、楽団員たちが自主的にアンサンブルを組み立てたという回想を読んで、なるほどと思ったものである。ベートーヴェンの2番[⑧]は、第1楽章コーダの高揚感に加え、第3・4楽章には明朗でありながら、大胆なデフォルメや達観したような響きが刻み込まれている。

ベートーヴェンの7番[⑧]、ブラームスの1番[⑨]、ブルックナーの8番[⑩]も、推進力に富み、剛毅な響きに貫かれた名演揃いだ(NHKクラシカルから映像作品も発売歴あり)。マタチッチの場合、ベートーヴェンの7番の第1楽章序奏で第2ヴァイオリンをオクターヴ高く奏させるなど、往年の巨匠が用いた手法も踏襲しているが、基本的に直進的なテンポを貫いて強靭な響きを保っていることもあり、古臭さを感じさせることなく、聴き手を魅了するのである。

マタチッチは、練習中も、演奏会の本番も、椅子に座ることはなかったが、1984年の来日時には、公演を重ねるたびに、疲労が溜まり、最後のプログラムの際には、N響のメンバーたちに懇願されて椅子に座って指揮をした。マタチッチの来日は、結果的に、この1984年春が最後となり、1985年1月4日に、当時のユーゴスラヴィアのザグレブで世を去った。85歳であった。

⑦~⑩は、没後の1986年6月に初めてディスクとしてリリースされ、以後、再発売が繰り返され、その一部はオーディオマイスターからSACD化もされた。その後も、マタチッチとN響のライヴ録音は、数多くCD化され、マタチッチの実演に接したことがない世代の音楽ファンからも愛され続けている。マタチッチは、カペルマイスター的なノウハウを学んだ後、自らの個性を開花させ、60代半ばにしてN響と出会った。その出会いは、両者にとって、きわめて幸福なものであり、亡くなる直前まで、両者の関係は良好であった。存在そのものが音楽であり、オーケストラで演奏する人々に風を与えると語られたマタチッチもまた、最初に指揮した時から、N響が気に入ったと語っている。

⑦マタチッチ:対決の交響曲
〈録音:1984年3月(L)〉
[デンオン(D)COCQ84878]

⑧ベートーヴェン:交響曲第7番,同第2番
〈録音:1984年3月(L)〉
[デンオン(D)COCQ84876]

⑨ブラームス:交響曲第1番
〈録音:1984年3月(L)〉
[デンオン(D)COCQ84877]

⑩ブルックナー:交響曲第8番
〈録音:1984年3月(L)〉
[デンオン(D)COCQ84875]

「一目惚れ」と語ったN響との絆

 この原稿を閉じるにあたって、『フィルハーモニー』誌の「N響設立50周年記念特集」に掲載されたマタチッチの文章(原文はドイツ語)を引用したいと思う。

(前略)このオーケストラと私は、その時いわば「一目惚れ」の間柄になりました。そして、こうして生まれたN響との親密な関係は絶えることなく、今日まで続いているのです。その間に、私は光栄にもN響の名誉指揮者となりました。名誉指揮者任命の辞令は、ユーゴスラビアのドヴロブニクの私の家に大切に飾ってありますが、そこに書かれた日本文字を見るたびに、私は、N響とともに経験した数々のすばらしい演奏会のことや、音楽を通じての、また人間としてのN響との美しい交流を思い出します。
 今後とも、私の肉体と精神の力の及ぶ限り、日本にやって来てお役に立ちたいと思います。終わりに、もう一度心からお祝い申し上げます。
N響名誉指揮者 ロヴロ・フォン・マタチッチ

 マタチッチとN響のディスクは、スケールが大きく、ひたむきな演奏であると同時に、古き良き時代の幸福な記憶にも満ちあふれている。ライヴ録音には、ミスも刻み込まれているが、マタチッチが大切にした音楽の流れが、つねに豊かに保たれている。このコンビのライヴ録音によるディスクは、近年、入手が難しいものもあるが、ぜひとも、カタログに載せ続けていただきたいと心の底から願ってやまない。

写真提供:NHK交響楽団

(次回は7月下旬公開予定です。オットマール・スウィトナーが登場します。ご期待下さい)

筆者プロフィール

満津岡信育(まつおか・のぶやす)
1959年東京都杉並区生まれ。1999年から現在の筆名を用い、音楽誌やCDのライナーノートの執筆を中心に活動中。旧『レコード芸術』誌の月評では、「再発売」を振り出しに、「ビデオ・ディスク」、「管弦楽曲」、「交響曲」の新譜月評を担当し、内外の音楽家たちのインタヴュー取材も数多く手がけた。2016年4月からNHK-FMの『名演奏ライブラリー』で案内役を務めている。

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