
インタビュー・文=那須田務(音楽評論)
写真=ヒダキトモコ
取材協力=ソニーミュージック・レーベルズ
デビュー40周年記念盤に、深い内面を込めて
小山実稚恵さんがデビュー40周年を記念しての小品集『アルバム』をリリースした。猛暑と台風の夏の終わりかけた9月中頃、ご自宅を訪ねてお話を伺った。小山さんは20歳台半ばでチャイコフスキーとショパン国際コンクールに入賞、1985年に正式にデビューされて以来、日本を代表するピアニストとして国内外で活躍している。
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小山「実はチャイコフスキーの時は、東京藝術大学の大学院生でまだマネジメントに所属していませんでした。帰国後に日本フィルさんのツアーや「若い芽のコンサート」で弾いたくらい。1984年に音楽事務所に入り、翌年がショパン・コンクールでしたから、その年を正式にデビューにしたのです」
───CDデビューは1986年のショパン・アルバム。以来ソニー・クラシカルから1、2年に一枚のペースで録音を行ない、今回の『アルバム』で34枚目。ロシア音楽とショパン、ドイツ・ロマン派の協奏曲やソナタなどの大作を録音していって、その合間に『夜想曲』『アンコール+』『ヴォカリーズ』『カンタービレ』、そして今回の『アルバム』のようなコンセプシャルな小品集を出されている。小山さんにとってこうした小品集はどんな意味を持つのでしょうか?

アルバム
【各トラック】
Tr.01 バッハ:ゴルトベルク変奏曲~アリア
Tr.02 ショパン:ワルツイ短調(2024年公表) *
Tr.03 チャイコフスキー:四季~10月〈秋の歌〉*
Tr.04 ショパン:マズルカ第29番嬰ハ短調 Op.41-4 *
Tr.05 バッハ:平均律クラヴィーア曲集第1巻第4番~前奏曲
Tr.06 シューマン:夕べに
Tr.07 ブラームス:間奏曲嬰ハ短調 Op.117-3
Tr.08 シューベルト:即興曲変イ長調 Op.90-4
Tr.09 シューマン:予言の鳥
Tr.10 シューマン(リスト編):献呈
小山実稚恵(p)
〈録音:2025年6月(*で示したトラック),1997年~2017年〉
[ソニーミュージック(D)SICC39140]
最新録音を3曲収録した、デビュー40周年記念作。
※2025年10月8日発売予定
【メーカー商品ページはこちら】
小山「私はもともと作曲家のカラーのはっきりとした作品が好きなので、CD録音となるとどうしても大作を選んでしまいます。こうした作品は弾き手の強い想いが入りますが、小品は自分の感性が反映される。肩肘を張らないというか、ある意味で内面的、そこがいいですね」
───今回の「アルバム」は確かにその極致という気がします。収録曲のシューマンの《夕べに》はsehr innig(とても内面的に)と指示されていますが、これに「深く」という言葉を添えて、sehr tief innig(とても深く内面的な)と言いたくなるくらい。
小山「ありがとうございます。そういうふうに聴いていただけると嬉しい。一般のリスナーはその時の気分や体調に合わせて聴きたい曲を選んで聴くでしょう。大作の場合は長い演奏時間の中で音楽の流れが大事になりますが、小品は一つ一つ短く完結しているから、気軽に聴きたい曲を選んで聴いていただける。それは弾き手にとっても同じで、曲順も録音のタイミングもその時々の気分で選べる。そういう音楽もいいなと」

小山実稚恵 Michie KOYAMA
日本を代表するピアニスト。宮城県仙台市に生まれ、岩手県盛岡市で育つ。東京藝術大学大学院在学中にチャイコフスキーコンクール、ショパン国際ピアノコンクール入賞以来、常に第一線で活躍し続けている。CDデビューは1986年、今回の『アルバム』が34タイトル目となる。また文筆分野では、平野昭氏との共著『ベートーヴェンとピアノ 「傑作の森」への道のり』、『ベートーヴェンとピアノ 限りなき創造の高みへ』(音楽之友社)などを出版している。
───タイトルの「アルバム」は、いわばフォト・アルバムのメタファー。ライナーノーツで寺西基之さんが「懐かしい写真が貼られたアルバムのページをめくって過去に思いを寄せているような気分を起こさせるすばらしいディスク」と書かれていますが、まさにそのようなしみじみとした懐かしい感慨を覚えます。
小山「そうなんです。フォト・アルバムで写真を見る人は、その背景にある想い出を見ているわけです」
ドラマのミクロコスモスが広がる、左右対称な「アルバム」
───そんなアルバムの写真を選ぶように、ご自分のかつての録音の中から7曲を選び、新録音を3曲加えられた。選曲はどうやって?
小山「もっとたくさんの曲を選んで最終的に絞り込みました。実はフランクの《前奏曲とコラールとフーガ》の前奏曲を入れるアイデアもありましたが、前奏曲とコラールを切り離したくないし、他の曲との兼ね合いもあります。静かな曲ばかりではなく少し劇的な曲も入れました。長く演奏活動をしていて、ミクロコスモス的なドラマがより一層好きになりました。そういう曲が年齢を重ねてもっと好きになった。ああこの曲のここ、こんなにいいんだって。それも音楽のちょっとしたところです」

「長く演奏活動をしていて、ミクロコスモス的なドラマがより一層好きになりました」
───「アルバム」の中心はシューマンの《夕べに》ですか?それこそsehr innigな曲ですし、この曲を挟んで、同じ調性(嬰ハ短調)のバッハの平均律第1巻の第4曲とブラームスの《間奏曲》Op.117-3の3曲がシンメトリカル(左右対称)な構成になっている。
小山「おっしゃる通りです。この3曲がアルバムの中心ですね。まず、バッハの《ゴルトベルク変奏曲》のアリアに始まり、2019年にニューヨークで手稿譜が発見され、2024年にショパンの真作と認められたワルツイ短調が続きます。この曲から「秋の歌」とショパンの《マズルカ》第29番 Op.41-4が今回の新録音。ワルツイ短調は序奏と主部の24小節からなる曲ですが、短い間にドラマもある魅力的な作品です。チャイコフスキーの《四季》から10月〈秋の歌〉を選んだのは、アルバムのリリースが10月ですし、チャイコフスキー・コンクールで弾いた想い出もあります。アルバム全体のイメージも秋です。私はショパンのマズルカが大好きなんですよ。とくにこのマズルカ(第29番)はドラマティックでスケールが大きく、陰影に富んでショパンにしては珍しく押しの強さもある。私にとって特別な曲ですが、これまで録音していなかった」
ますます音楽を好きになったからこそ、もどかしい
───ここまでが前半という見方も出来ますね。後半はバッハの「平均律第1巻」の前奏曲嬰ハ短調に始まります。これとブラームスが同じ調性。お好きな調性なんですか?
小山「好きな曲に嬰ハ短調が多いと言った方がいいかな。それからショパンの新発見のワルツイ短調もそうですが、バッハの前奏曲もシューマンの《夕べに》にもドラマがある。ブラームスの《間奏曲》嬰ハ短調もそうですが、こちらはちょっと心の不安が感じられる。そしてシューベルトの《即興曲》変イ長調Op.90-1も好きですねえ」
───次の《予言の鳥》もいいアクセントになっていますね。神秘的でミステリアス。人の心の中は分からないということでしょうか。
小山「ここでこの曲を入れたのは、私としても気に入っています」
───そしてシューマンの《献呈》でアルバムが閉じられる。最近、感じておられることはありますか?
小山「そうですね、自分で思っていること、感じていることをピアノで伝えるのは本当に難しいということでしょうか。たとえば、自分の想いは肘のところから手から鍵盤へと伝わっていきますが、その過程でどんどん減って音として出て来る時には10分の1くらいになってしまう。いつもそんなもどかしい思いを感じて弾いています。
昔ね、NHKテレビの名曲アルバムを見ていて、この人ずいぶんあっさりしてる。私だったらこう弾くなと思ったら自分の演奏だった(笑い)。もう愕然として。かつて間宮(芳生)先生が、自分の想いを伝えたかったら音が掠れてもいいから本気でそう思わなければだめなんだっておっしゃっていたけど、本当にそうだと思う。きれいな音を出そうと思うと、自分の気持ちは別のところに飛んじゃう。もちろん楽器によっても反応が違います。経験と馴れとは違うでしょう。馴れちゃだめ。ちょっとした音の切り方もお客さんがいるのといないのとでも変わってくるし、録音とコンサートでも違うから本当に難しいですね」

「経験と馴れとは違うでしょう。馴れちゃだめ。」
───小山さんでもそうなんですね、そのような細かなことが気になってきたのはなぜでしょうか。
小山「音楽がますます好きになったから、ということでしょうか。同じ曲でも以前よりさらにさらに好きになった。たとえばある曲でドからミに行く感じとか、それだけでいいなあって」
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最後にこれから録音などで取り組みたい曲は何ですかと問うと、「ドイツ・ロマン派。なかでもシューベルト」と答えてくれた。でもまだ公式には言えないようで、最後の3つのソナタですかと誘うとふふふと謎めいた返答(どうやらそのあたりらしい)。そういえばベートーヴェンの最後の3つのソナタも4年前に録音している。「今本当に一番好きだと思えるのは、やっぱりシューベルトかもしれません。言葉にいえないくらいいい。こんなにいいものが世に中にあるのか。美しすぎる。たりたりたりたりっていうフレーズだけで死にそうになる」。小山さんはそう言いながら、うっとりとした表情を浮かべて深いため息をついた。
デビュー40周年記念公演が開催!
10月12日には「小山実稚恵サントリーホール・シリーズ〈以心伝心〉2025」が開催される。小山さんのデビュー40周年記念公演とサントリーホール開館記念日公演を兼ねたコンサートで、東京フィルとチャイコフスキーの協奏曲第1番とラフマニノフの協奏曲第2番が演奏される。指揮は当初予定されていたフェドセーエフが体調不良でドミトリー・ユロフスキに代わったが、世界2大コンクール入賞とデビューから40年余、ますます音楽愛が止まらない小山実稚恵さんの渾身の演奏が聴けることだろう。
■コンサート情報

小山実稚恵デビュー40周年記念公演
小山実稚恵 サントリーホール・シリーズ
Concerto〈以心伝心〉2025
日時 2025年10月12日(日) 16:00開演(15:20開場) サントリーホール 大ホール
演奏 小山実稚恵(p),ドミトリー・ユロフスキ指揮東京フィルハーモニー交響楽団,フェドセーエフ・フレンズ
曲目 チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番変ロ短調 Op.23,ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番ハ短調 Op.18
詳細・チケット購入はこちら(サントリーホールのページ)