音楽評論家・城所孝吉氏の連載、第9回は、指揮者とオーケストラの関係を、アーノンクールとベルリン・フィル、同じくアーノンクールとウィーン・コンツェントゥス・ムジクスを例にとって、指揮者が自らの解釈をオーケストラ団員に伝達する手段のあり方について考えていきます。
自ら音を出さない指揮者はオーケストラに依存した存在
当連載の第7回では、ピアニストが自分の解釈を自らコントロールし、音にする立場にある、という話をした。それと同様に、特定の読みを携えてリハーサルに臨み、音化する役割を担うのが、指揮者である(現場では、団員の演奏が指揮者にインスピレーションを与えることも多いが、ここでは便宜上、解釈が固定しているものと考える)。そのさい両者の違いは、ピアニストが自分の考えを自ら音にできる一方で、指揮者はまったくそうではないということだった。もちろんピアニストも、解釈を音にする能力がなければ実現できないが、指揮者は原則的に演奏に自ら手を下すことができない。実際に音を出すのが、オーケストラ団員だからである。
我々聴衆は、オーケストラは指揮者が棒を振り下ろせば、その通りに演奏するものだと思っている。「楽団を操るのが指揮者」とは一般人が持つイメージであり、事実その卵たちも、ある種の支配欲から指揮を志すものである。しかし現実には、団員は指揮者の思いのままに弾くわけではない。彼らは、それぞれが自分の考えを持った個人であり、まず解釈に納得しなければ、本当に共感して演奏しないのである。
このことは、レヴェルが高くなればなるほど――個々の団員の音楽的な考えが明確で、意志が強ければ強いほど――当てはまる。私は30年間ベルリン・フィルの演奏会を聴き続けてきたが、常に痛感したのは、彼らは指揮者の解釈に説得できなければ言うことを聞かない、ということである。それは団員のほぼすべてということもあれば、ごく一部ということもある。
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