
シベリウス/交響曲全集〔第1番~第7番〕
ユッカ=ペッカ・サラステ指揮ヘルシンキpo
〈録音:2024年11月~2026年1月(2~7番=L)〉
[オンディーヌ(D)NYCX10600(3枚組)]
※2026年6月26日発売予定
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文=松原 千振 (合唱指揮)
初演から100年目の一つの “回答” を我々はどう聴くべきか
明快この上ないシベリウスの交響曲全集の登場だ。
シベリウスの交響曲(全7曲)は、日本人指揮者を含め、これまで多くのオーケストラによって演奏・録音されてきたが、そんななか今回のサラステの演奏は、今までになく、颯爽とした流れの良さが際立っている。だが筆者には、その洗練の極にある演奏に若干の戸惑いを感じなくもない。
思えば、最後の交響曲、第7番(1924年初演)や交響詩《タピオラ》(1926)から100年が経ち、また、第1番から第6番の交響曲を初演した栄誉を持つヘルシンキ・フィルも、当然のことながら世代交代があった。ヘルシンキ大学の講堂で行なわれた初演に接し、聴衆は自らを省み、自らを再発見し、この音楽こそは自分たちの音楽であると心に刻み、皆、コンサートが終わってからもロビーにおいて拍手を続けた、というエピソードがある。そうした熱狂から100年余。時代も価値観も大きく転換した。
ここで全交響曲の各楽章それぞれについてじっくり語る紙幅はないので、一つだけ、第3番の第2楽章を例に挙げる。冒頭に現れる主題と主題の間の移り行きの部分で、過去の——たとえばバーンスタインやセーゲルスタムといった——指揮者たちは、音符ひとつひとつに複雑に重ねられた意味合いを嚙みしめるように、ややくぐもった音でデフォルメと言ってもいいこだわりを聴かせた。だがサラステは、それらへのアンチテーゼの如く、あるいは祖国フィンランドの自立・独立への艱難辛苦をたどるナラティヴを避けるかのように、あくまで淡々と駆け抜けていく。それが正しいとか間違っているかといった話ではなく、こうした流れの良さが現代のシベリウス演奏の最先端であろう。
これまでにない清新さ、明快さをもって演奏されるスマートなシベリウスを、読者諸賢がどう受け入れるか、お尋ねしたいところでもある。
協力:ナクソス・ジャパン
