
特別企画シリーズ「武満徹の音楽世界」! 作曲家・武満徹(1930~96)の没後30年を記念して、その音楽の魅力に迫ります。
今回の記事は、音楽評論家・秋山邦晴が『レコード芸術』1973年9月号に寄せた連載「日本の作曲家たち」第24回の再掲載。盟友・武満徹についての論考です。
※再掲載にあたり、一部の約物を変更しております。
※文中表記・事実関係などは連載当時のまま再録しています。
※ディスクは「レコード芸術ONLINE」編集部が2026年7月現在で入手可能な盤を中心に選定し、掲載しています。よって、掲載当時にはリリースされていないものを多く含みます
風は見えない。だが、一瞬、風がうまれ、去っていくとき、ガラス窓の向う側で、木々が揺れ、梢の葉はその余韻を残してざわめきつづける。そのとき、ぼくらは風を見たように思う。風の視覚化? 窓をあける。風はぼくの身体に触わる。そのとき、風はその存在を触覚的に伝えたと思う。だが、ぼくに触わったのは空気だ。その空気のどこに風が存在したのか。
音を体験するということも、いったい、どのようなことなのであろうか。
どこかで音がうまれ、消えていく。湖に落ちた小石が水輪をひろげるように、音は一点から発して、空気を振動させながら周囲にひろがり、消えていく。そのとき、はたして音とは発音した物体のなかにあるのか。それとも拡散していてその空気のなかに存在していたのか。
音のふち、音の縁はどこにあるのか。
むろん音を「見る」ことはできない。しかし物理的な存在としての音は見えないかもしれないが、聴覚的なイメージとして見ることは可能である。
武満徹はつぎのように書いている。
音はつねに新しい個別の実体としてある。なにものにもとらわれない耳で聴くことからはじめよう。やがて音は激しい変貌をみせはじめる。その時、それを正確に聴く(認識する)ことが聴覚的想像力なのである。
そして
音のひとつひとつに、生物の細胞のような美しい形態と秩序があり、音は、時間の眺望のなかで、たえまない変質をつづけている。
ともいっている。
武満徹の音楽にみられるのは、初期作品から近作にいたるまで、このような聴覚的なイメージ、聴覚的想像力の占めている独特の役割というものであろう。
■関連音源

1 武満徹の音楽
〔弦楽のためのレクイエム,地平線のドーリア,遮られない休息,独奏ピアノとオーケストラのための弧,ル・ソン・カリグラフィー,ピアノ・ディスタンス,他〕
若杉弘指揮 読売日本so,高橋悠治(p)他多数
〈制作:1966年〉
[ビクター(S)SJV1503~6(4枚組)]LP ※現在取扱なし
1966年度 第4回レコード・アカデミー賞での、特別部門受賞盤としても知られる当時の作品集成LP-BOX。
たとえば、かれのデヴュー作品ともいえるピアノ曲《二つのレント》(1950)に、すでにそういった特色がみられたのではないか。第1曲はペンタトニックの悲しく暗い主題が、しずかに流れていくが、ほとんど1小節ごとに3/4、5/4、3/4、4/4……といったようにテンポがゆれうごく。第2曲はメシアンの《前奏曲》の影響のみられる音楽で、ハーモニーの房がデリケートな色彩の微細なうごきを柔らかく変化させていく。そこでは、もはや旋律構造の展開図はない。音の色彩や質の変化の瞬間がフォルムとしてかたちづくられていくのである。そういった音の瞬間のイメージにかれは没入し、それと心的状態が触けあっている直接的な一体感が、この作品のひとつの特色である。
武満徹のスウィートなまでのあの感受性の表情は、初期の作品にいずれも明瞭である。ピアノ曲《遮られない休息》(1950~59)の第1曲のやわらかい音色。やわらかく浮遊するふしぎなフォルム。
このピアノ曲は詩人瀧口修造の詩集『妖精の距離』のなかの同名の詩のイメージによって作曲したものだ、と武満はかいている。
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