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音楽評論家。ショスタコーヴィチをはじめとするロシア・ソ連音楽、マーラーなどの後期ロマン派音楽を中心に、『レコード芸術』『CDジャーナル』『音楽現代』誌、京都市交響楽団などの演奏会プログラム、各社ライナーノート等に執筆。著書にONTOMO MOOK『究極のオーケストラ超名曲徹底解剖66』(共著、音楽之友社)など。
カール・アマデウス・ハルトマンの作品の中で抜群に演奏頻度が高いのは、ヴァイオリン協奏曲《葬送》(1939)だろう。何度聴いても心打たれる音楽だ。この協奏曲は、アダージョとアレグロという2楽章を2つのコラールが挟む形になっている。独奏ヴァイオリンが沈鬱に歌う最初のコラールは、チェコのフス派教徒のコラール《汝ら、神の戦士たち》、弦楽によって歌われる最後のコラールはロシアの革命歌《同志は倒れぬ》の引用である。前者はスメタナ《わが祖国》の〈ターボル〉〈ブラニーク〉やスークの交響詩《プラハ》など多くの作品に、後者はショスタコーヴィチの交響曲第11番第3楽章にも使われているのでご存知の方も多いだろう。非常に印象的な引用だが、その意味は明らかだ。この協奏曲は、1939年3月のナチスによるプラハ占領への抗議として書かれたのである。《葬送》協奏曲だけではない。彼の多くの作品には、ナチスヘの、そして戦争の非人間性への抗議が込められている。今月取り上げるのは、音楽によるレジスタンスを続けた作曲家、カール・アマデウス・ハルトマンだ。
「国内亡命」の日々
カール・アマデウス・ハルトマンは、1905年8月2日、ミュンヘンに生まれた(彼は生涯のほとんどをこの町で過ごす)。彼は1924年、ミュンヘンのアカデミーに入学、まずレーガーの弟子である作曲家ヨーゼフ・ハースに、そして1930年代にはヘルマン・シェルヘンに師事し、作曲家としての第一歩を踏み出す。若き日のハルトマンは、未来主義、ダダイズム、ジャズなどの新しい潮流を貪欲にとりいれた。《ブルレスケムジーク》(1931)はその例である。
1933年冬、ハルトマンにとって、そして世界にとって大きな事件が起こる。ナチスがドイツの政権を掌握したのである。間もなくミュンヘンに程近いダッハウに最初の強制収容所が作られる。ハルトマンはこれに反発して、徴兵を避け、社会生活から自らを遮断し、いわば国内亡命を敢行する。後に彼は次のように回想している。「この年私は、あの力を前にした疑いや恐れによってではなく、反対行動としての告白を行なわねばならないと気づいた。たとえ我々が滅びても、自由は勝利する、と自分に言った。――当時私はそう信じていた」(『私自身と私の仕事について』)。その結果、戦争終結まで彼の作品はドイツ国内ではまったく演奏されなくなる。弦楽四重奏曲第1番(1936)はジュネーヴで、ヴァイオリン協奏曲《葬送》(1939)はザンクトガレンで初演された。歌劇《ジンプリチウス・ジンプリチスムス》はブリュッセルで初演されることになっていたが、国際情勢の悪化により中止された。ドイツによるベルギー侵攻の直前のことである。
夫人の実家が裕福であったため生活はできたが、演奏される当てのない作品を黙々と書き統ける日々は、出口のない不安と恐怖に満ちたものだった。精神的危機にあった彼を救ったのはアントン・ヴェーベルンとの出会いだった。「私は、ともに音楽の問題を討議することのできる誰かを求めた。そして幸運にも偉大な音楽家に出会った」(同上)。1941~2年、彼はウィーン近郊に住むヴェーベルンのところへ赴き、彼に師事する。ハルトマンと事情は違うものの、やはり孤立状態の中で生きていたヴェーベルンは、ハルトマンの師、そして友人となり、大きな影響を与える。
「ムジカ・ヴィヴァ」と
戦後の活動
戦争が終わると、ハルトマンをとりまく状況は180度変わる。戦前戦中に高い地位にあった音楽家のほとんどは、国外に出るか、あるいはナチスの協力者の疑いによって活動ができなくなるという状況の中で、ドイツにとどまりながら反ナチを貫いた音楽家はわずかだった。そのような事情もあって、ハルトマンに急速に脚光があたり、バイエルン国立歌劇場の音楽文芸員(ムジークドラマトゥルグ)など、公的な仕事も増えてくる。彼はこの機会を活用して、同時代音楽を紹介するための演奏会シリーズをミュンヘンで設立する。現在も続く「ムジカ・ヴィヴァ」である。最初の演奏会は1945年7月10日、ブゾーニの《喜劇序曲》、マーラーの交響曲第4番、そしてドビュッシーの《イベリア》という曲目(ヴェッツェルスベルガー指揮バイエルン国立管)というプログラムだった。1949年にバイエルン放送交響楽団が設立されると「ムジカ・ヴィヴァ」はこの楽団の活動の大きな柱となり、ストラヴィンスキー、ミヨー、ヒンデミットら多くの作曲家がミュンヘンを訪れ、自作を指揮した。
もちろんプロデューサー業だけをやっていたわけではない。ようやくドイツ国内で作品が演奏できるようになったハルトマンは、多忙な生活の中、着実に作品を発表していく。ところで、上述の通り、国内亡命時代、彼は多くの曲を作曲しながらしまいこんでいたわけだが、戦争が終わってそれらを順番に出していったかというと、そうではなかった。彼はその多くの作品を撤回してしまったり、大幅に改訂したり、とにかくそのまま出すことを避ける。その代表が、ハルトマンの作品の根幹をなしている交響曲である。番号付きの8曲はすべて戦後に発表されたものだが、そのうち最後の2曲を除く実に6曲が、戦前や戦中に書かれた作品を改作したり、部分的に転用したりしたものなのである。例えば交響曲第1番《レクイエムの試み》が初演されたのは1955年だが、この曲は1935/36年に作曲した《交響曲断章:我らの生》を1950年に改作したものである。また、第6番は、エミール・ゾラの小説『制作』に基づく交響曲(1937/38)の部分を転用したものである。近年、これらの作品の改作前の形態も出版、録音が進んでいるので、ハルトマンが、どのような心境でどのように自作の見直しを行なったかということは、明らかになっていくだろう。
クーベリックはじめ多くの一流演奏家によって作品が演奏、録音され、たくさんの賞を受けたハルトマンの晩年は栄光に包まれたものだったと言えるだろう。だが、残された時間は長くはなかった。50年代末から健康を害していたハルトマンは、1963年12月5日、ミュンヘンで世を去る。まだ58歳だった。最後の作品はジャン・ジロドゥーの『ソドムとゴモラ』に基づく《歌の情景》だった。死の直前、『ミュンヒナー・メルクーア』紙の批評家シュミット=ガレに、ハルトマンは書いた。「私は、音楽や芸術が権利をもつのは、それらが人問をよりよくしようと努め、人間の中のよりよい自我を目覚めさせるときだけだと信じています。……それゆえこの倫理的正当性がなければ芸術は単なる精神の遊びでしかありません」。彼が求め続けた音楽を端的に物語る言葉だ。
日本を含むドイツ国外では、ハルトマンの作品は、まだまだごく限られた紹介にとどまっている。しかし、去年から今年にかけて、ドイツではハルトマンに関する伝記や資料集が出版され、たくさんの演奏会で彼の作品が取り上げられる。いずれこの波が国外にも波及して、ハルトマンの作品がその価値にふさわしい地位を得る日はそう遠くないのではないかと思う。
ハルトマンとヴェーベルン
ハルトマンがヴェーベルンに師事していた間、いったいどんな話をしていたのかは興味深いところだ。幸い1942年11月にハルトマンが妻に宛てた手紙には、ヴェーベルンとのレッスンや会話のことがかなり詳しく書かれているので、少し紹介しよう。2人は、毎回3、4時問のレッスンのあと、いろいろな作曲家についてや音楽の将来について、その他いろいろなことを話し合うというのが常だった。レッスンでは、ハルトマンの作品やヴェーペルンの作品のほか、ベートーヴェンのOp.2-3のピアノソナタやレーガーの弦楽四重奏曲嬰へ短調などの古典作品を詳細に分析(ヴェーベルンは「ルーペの下で昆虫を解剖し、羽の模様や複眼に喜ぶ学者のよう」だったという)したという。面白いのはブルックナーに対する評価の違いだ。ヴェーベルンは、ブルックナーを全く評価していなかった。ブルックナーを尊敬するハルトマンはこれについて「彼のレーガーヘの高い評価を知れば知るほど彼のブルックナーヘの拒絶に同意できないのです。彼はブルックナーが音楽の発展のために何かをなしたとは思っていないのです。いったいブルックナーが、彼の愛するマーラーとそれほど隔たっているのでしょうか」と漏らしている。なお、結局ハルトマンはヴェーベルンの十二音技法で作曲することはなかったが、「ムジカ・ヴィヴァ」ではもちろんヴェーベルンら新ヴィーン楽派の作品も積極的に取り上げて紹介した。
おすすめディスク

ハルトマン/交響曲全集
インゴ・メッツマッハー指揮バンベルクso
〈録音:1993,95,96,97年〉
[EMI(D)TOCE55105(3枚組)]
ハルトマンといえば交響曲。これは史上ふたつ目の、そしてひとりの指揮者によって完成された最初の交響曲全集だ。クーベリックやライトナーらによる最初の全集(Wergo)が、熱い共感をベースに作品を大きく捉え、劇的な演奏を繰り広げていたのに対し、メッツマッハーは作品のストーリーのわかりやすい絵解きを拒否し、細部の明解な表現にこだわることによって新しい光を当てて見せた。旧全集を持っている人も買う価値ありだ。

ハルトマン:ヴァイオリン協奏曲《葬送》,交響曲第4番,室内協奏曲
イザベル・ファウスト(vn)ポール・メイエ(cl)ペーターゼンSQ,クリストフ・ポッペン指揮ミュンヘン室内o
〈録音:1999年7,9月〉
[ECM(D)4657792(海外盤)]
《葬送協奏曲》は名作だけに、ラウテンバッハー、スピヴァコフ、ツェートマイヤーなど、昔からよい録音に恵まれているが、イザベル・ファウストによるこの演奏は出色だ。ファウストは、高い集中力と確かな技術でこの曲から激しいドラマを引き出す。ポッぺン指揮による交響曲第4番、メイエらによる室内協奏曲とも、切り込み鋭く密度の濃い演奏だ。ハルトマンを何か1枚聴いてみたいという方にもお薦めできる。

ハルトマン:歌の情景
ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(Br)ローター・ツァグロゼク指揮オーストリア放送so
〈録音:1982年8月,84年8月〉
[Orfeo(D)C 535 001 B(海外盤)]
惜しくも未完に終わったハルトマンの遺作だが、ソドムとゴモラの繁栄と滅亡をバリトン独唱が歌うこの作品は、まぎれもなく彼の最高傑作のひとつだ。オーケストラは、時に神秘的に、時に暴力的に変幻しつつ、黙示録的なヴィジョンを織り成していく。かつてディーン・ディクソンの棒でこの曲を初演したフィッシャー=ディースカウは、初演から20年を経たこの演奏で、語りの芸術の極致を聴かせる。
