
柴田南雄の連載、「名演奏のディスコロジー」の再掲載5回目です。
『レコード芸術』1976年1月号から77年12月号まで、計22回続いた本連載の第6回にはチェリスト、ジャクリーヌ・デュ=プレが登場! 1970年エディンバラ音楽祭の録音がまとめられた『ベートーヴェン/チェロ・ソナタ全集』は、そのリリース時に「これが最後のレコード」とアナウンスされたものでした。音楽祭の時点で、デュ=プレはすでに多発性硬化症との闘いのなかにありました。
※文中の記述・事実関係などはオリジナルのまま再録しています。(今日では不適切と思われる表現も含まれますが、原典を尊重してそのまま掲載いたします)
※文中レコード番号・表記・事実関係などは連載当時のまま再録しています。
人間の運命が予測を超えた方向にとつぜん曲がり込むのは世の習いとは言え、誰もがその才能を讃え、洋々たる未来を信じていたジャクリーヌ・デュ=プレの「これが最後のレコード」と銘打たれた『ベートーヴェン/チェロ・ソナタ全集』(エンジェル EAC77108~10)を手にして愛惜の情ひとしおである。何やらむずかしいラテン語の病名で再起の叶わぬ難病と聞いても、われわれ素人にはその正体を想像することもできぬが、何とも悲劇的なことというほかない。このベートーヴェン全集にしても。1970年8月25日と26日の両夜にわたるエディンバラ音楽祭のBBCによる放送中継用ライヴ録音なのである。この年はベートーヴェン生誕200年に当たり、エディンバラ音楽祭もベートーヴェンが一つの柱になっていた。しかし、デュ=プレにしてもバレンボイムにしても他日スタジオで録音し直したかったろう。
ところで、その70年のエディンバラ音楽祭だが、わたくしはじつはその時、そこへ行っていたのだ。けれども、いずれデュ=プレとバレンボイムのソナタなどは日本でも聞けるだろうと思い、聞く予定には入れていなかった。ともかく、われわれは8月22日にエディンバラ入りする積りでその日の午後の早い便でパリを立ち、ロンドンで当時のBEA(英国国内航空)に乗り換えたが、エディンバラには霧で着陸できず、西海グラスゴーに連れて行かれてしまった。冷たい北東風が北海の海霧を運んでくるとエディンバラ空港はすぐ閉鎖になるらしい。夜半すぎにやっとバスでエディンバラに辿りついたが、翌日も翌々日も、その寒いのには参った。日中でも8℃くらいだったと思う。わたくしは耐えかねて安物のオーバーを買った。
翌23日は日曜で、その夜がエディンバラ音楽祭のオープニング、アッシャー・ホールでベートーヴェンの第一と第九(ソプラノ、ヒザー・ハーパー他)をジョン・バルビローリが振るはずだったのが、直前に急逝したのでコリン・デイヴィスに代った。そんなものを聞く積りはなかったのだが、音楽祭のプレス関係の愛想のいいおじさんが気前よく券を呉れてしまうので、また一つにはオケのニュー・フィルハーモニアがその春頃の来日時にあまりに批評が悪かったので、実情はどうなのかという興味もあり(筆者は日本で聞けなかった)、出掛けてみた。オケはちっとも悪くなく、どうして日本であんなに書かれねばならなかったのか不思議なくらいだった。そして、翌24日はマチネーにアマデウス・クヮルテットのベートーヴェンの作品18の1、132、18の2、の3曲を、エディンバラよりもっと海寄りの、もっと寒いリースのタウン・ホールで聞き(聴衆も少なかったっけ)、夜はキングス・シアターでプロコフィエフのオペラ《火の天使》(フランクフルトのシェテッティッシュ・ビューネンの来演)を見た。そして翌日、これがレコードのデュ=プレとバレンボイムの協演第一夜が初日と同じ、市内のアッシャー・ホールであった日だが、わたくしはキングス・シアターでスコッティッシュ・オペラが上演するヘンツェの《若い恋人へのエレジー》を聞く予定にしていた。しかし、前にも言ったように寒くてたまらないのと、同行の家人がこの日の昼のロンドン発で一足先に日本に帰ることになっていたので、わたくしもヘンツェの予定をカットしてそれを見送りがてらロンドンに引揚げてしまった。という訳で完全にすれちがいに終ったとは言え、あの70年の夏の終りの、北海の寒気団にスッポリ包まれていた古都エディンバラのすばらしい印象、とくにあの町で接した人々の暖かさをこのレコードを聞きながらあれこれ思い出したのだった。
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