【連載】トーキョー・モデュレーション 第22回/沼野雄司

トーキョー・モデュレーション連載
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残された骨が楽器になり、誰かに演奏される

もう忘れることはない、僕は母親から受けた心臓の鼓動の信号を忘れない、死ぬな、死んではいけない、信号はそう教える、生きろ、そう叫びながら心臓はビートを刻んでいる。――村上龍『コインロッカー・ベイビーズ』

 「飛行機の音ではなかった」。そんな書きだしで、小説ははじまる。横田基地に発着する軍用機の音だと思っていたものが、耳のうしろを飛んでいる小さな虫の羽音だったというのだ。その後、物語はドラッグや乱交など、自堕落な生活をおくる若者たちの姿を描いてゆくのだが、たしかにある種の切実な空気を感じはしたものの、はじめて読んだときには、いったいこれをどう楽しめばよいのか分からなかったというのが正直なところ。多分、高校生の時だ。
 かくして『限りなく透明に近いブルー』との出会いに失敗したわたしは、しかしその後、なぜか彼の小説を片っ端から読んでゆくことになる。高校時代からごく最近まで断続的に摂取し続けたから、おそらくはかなりの影響を受けたはずだ(最近気づいたのだが、このことはわたしの人生をいくぶん危ういものにしたように思う・・・・・・)。処女作を再び手に取ったのは、もう30代を過ぎてからだったはずだが、あらためて読んでみて、なるほど巧緻な小説だなと感じ、さらにはいくつかのことを考えた。
 わたしたちは何かの音が聞こえてくると、これは車、これは鳥、という具合に瞬時に「情報」として分類し、その作業を終えると「ノイズ」として意識の外に追いやってしまう。たぶん、あの小説の冒頭で記されていたのは、飛行機と虫の区別にとどまらず、情報とノイズを容易には区別できない状態なのだ。主人公の「リュウ」には、生まれつきそうした情報処理能力が欠損しており、ゆえにこの小説は彼が見たり、聴いたり、触ったり、嗅いだりするものが、小賢しくも平凡な変換処理を経ないまま、そのままゴロリと並置されて、一種「文学的」なリアリティを構成している。
 言ってみれば、リュウという主人公は――おそらくほとんど似た名を持つその作者もまた――「ノイズキャンセリング」が決定的に苦手なのだ。

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 もちろん、何も聞こえなくなるわけはない。あれは外界のノイズに対して逆位相の音を発生させるという仕組みだから、ヘッドフォンの中から響いてくる「ノイズ・ミュージック」はきれいに再生してくれるはずだ。もっとも、そのノイズ・ミュージックを外部のスピーカーで再生した場合には――作品のタイプにもよるだろうが――ヘッドフォンは健気に、その音を中和させようとするのかもしれない(わたしはこの種のヘッドフォンを持っていないので実験ができない)。
 当たり前だけれども、ここからも明らかなように、ノイズはこちらの姿勢によって素敵な音楽にもなれば、消去すべき雑音にも変化する。すなわちノイズとは物理的、絶対的な存在ではなく、むしろ心理的、歴史的、さらには個人的な在り方をしているわけだ。これはノイズを語る際、もっとも重要な事柄ではないだろうか。
 こんなことをあらためて考えたのは、このところ、イタリア出身の作曲家クララ・イアノッタ(Clara Iannotta、1983-)の作品をよく聴くからだ。ローマに生まれ、フランスで学び、ベルリンに住む女性作曲家。
 彼女の作品では弦が軋む音、金属がかすかに触れあう音、摩擦による小さな振動などが重要な役割を果たしている。いわゆる「ノイズ・ミュージック」のように大音量で聴き手を威嚇することはなく、たいていは今にも消えてしまいそうな小さな音だから、こちらは執拗に耳を澄ませなくてはいけない。
 そうしたイアノッタの代表作の一つに、17人の奏者のために書かれた《復活を目指して――春、あるいはそれに類する何か Intent on Resurrection — Spring or Some Such Thing》(2014)がある。
 奇妙なタイトルだが(タイトルについては後述する)、実際の音楽はさらに奇妙だ。冒頭ではフルート、クラリネット、ファゴットの奏者たちが、それぞれの楽器を演奏する代わりに、電気メガホンに向かって口を近づけ、唇や舌をゆっくりと動かしはじめる。飴玉を舐めるようにして、口腔内のかすかな音を発生させるのだ。その小さな響きがメガホンによって増幅され、演奏会場に少しずつ広がってゆく。
 言うまでもなく、口腔内の音はきわめて小さいから、わたしたちが日常的に意識することはほとんどない。ゆえにそれが増幅されると、ある種の異様な生々しさを帯びはじめる――ちょっとばかり『限りなく透明に近いブルー』の作品世界を覆っている感覚にもちかい。だからこの曲に接すると、音を聴いているというより、誰かの身体の内部に入り込んでしまったような感覚を覚えるのだ。
 拡声器を使っているから、実際の音量が極度に小さいとは限らないのだが、音が大きくなっても、依然として「小さな音」であるという印象は失われない。ここでは音の物理的な大きさと、知覚される音の大きさとが、微妙に食いちがいながら並んでいる。まさに飛行機の音と、羽虫の音のように。

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