絶滅芸術?
【連載】プレルーディウム 第22回/舩木篤也

プレルーディウム連載
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音楽評論家・舩木篤也氏の連載「プレルーディウム」。
プレルーディウム(Präludium)は、ドイツ語で「前奏曲」の意味。毎回あるディスク(音源)を巡って、ときに音楽の枠を超えて自由に思索する注目連載です。
第22回には、NHK交響楽団と東京交響楽団の公演も記憶に新しい、フランツ・シュミット《七つの封印の書》が登場。東京国立近代美術館で開催された『杉本博司 絶滅写真』展を手掛かりとして、1938年に初演されたこの大作が、2026年に相次いで上演された意味を考えていきます。今回は特別拡大版でお届けします。

ディスク情報

フランツ・シュミット:オラトリオ《七つの封印の書》

カート・ストレイト(T:ヨハネ)フランツ・ハヴラタ(Bs:神の声)ドロテア・レーシュマン(S)マルヤーナ・リポヴシェク(A)ヘルベルト・リッペルト(T)ヘルベルト・タヘツィ(org)ニコラウス・アーノンクール指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団,ウィーン楽友協会合唱団(合唱指揮:ヨハネス・プリンツ) 
〈録音:2000年4月(L)〉
[テルデック(D)WPCS13525]※2枚組

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絶滅芸術?

 「終末」に関わる同じ作品が、同じ時期に演じられたのは偶然だろうか?
 去る9月、NHK交響楽団(以下、N響)と東京交響楽団(以下、東響)が、フランツ・シュミットのオラトリオ《七つの封印の書》を演奏した。新約聖書の『ヨハネの黙示録』を独自に編んで歌詞とした、シュミット晩年(1935~37)の作品だ。どちらも2公演あったが、私はそれぞれ1公演だけ、N響を9月13日に、東響を19日に聴いた。それでも、頭も心もいっぱいで、混乱がなお続いている。なんといってもこれは、そうそう体験できる作品ではなく、また簡単に飲みこめる作品でもないのだ。4回すべてを聴いていたら、混乱はさらに激しくなっていたかもしれない。
 N響は「100年特別企画」、東響は「創立80周年記念」ということで、2026年に「周年」が重なったのは、偶然と言える。そうした機会に大がかりな音楽をやろうというのも、分かる。けれども、なぜに同じシュミットが、なぜに同じこの曲が選ばれたのか?
 そこには必然があったように思う。
 その思いを強くしたのは、直前に『杉本博司 絶滅写真』展を見たからだろう。東京国立近代美術館にて、あたかもシュミット祭にバトンを渡すかのように、6月16日から9月13日まで開催された。私が杉本作品に会いに行くのは、本連載第16回で「江之浦測候所」を訪問して以来のことだ。

『絶滅写真』展

「杉本博司 絶滅写真」フライヤー表紙

杉本博司 絶滅写真

2026年6月13日(土)~9月13日(日) ※会期終了
東京国立近代美術館 1F企画展ギャラリー

主催:東京国立近代美術館、日本経済新聞社

【東京国立近代美術館の展覧会ぺージはこちら】
【日本経済新聞の展覧会ページはこちら】

1.

 『絶滅写真』にいう「絶滅」とは、銀塩写真のそれを指している、ととりあえずは言える。
感光性のあるハロゲン化銀を塗ったフィルムに光を当てる。そこにできた像を現像液をもちいてネガ像として出現させる。それを定着液で完成させ、ネガフィルムとし、これを通して印画紙に写真を焼き付ける——そう、20世紀育ちの者ならだれでも知っている、あの「従来の写真」が、銀塩写真である。
 杉本作品の場合、光と影の諧調が、色の諧調が——ほとんどの作はモノクロームで、とても大きい——息をのむほど濃やかで、これが観る者を圧倒する。たとえば「劇場」シリーズ。映画館内で上映中の一編を始めから終わりまでシャッターを開けたまま撮ったそれらは、映画の像を、なんら写していない(ように見える)。スクリーン上に認められるのは、白い(ように見える)光だけである。だが、そこには映画の全編が、たしかに写っているはずなのだ。少なくとも、その全時間が。スクリーン周辺の暗闇で怪しくもクッキリ浮かぶ客席やプロセニアムの陰影に、同じ時間が写っているように。
 こうした像は、まさに銀塩写真だからこそ可能なのであろう。しかし、その可能性が、その意義が、いまや根底から脅かされているらしいのである。
 「ジオラマ」シリーズになると、そのことがもっとはっきりする。
 杉本の初期の営みから発したこのシリーズは、アメリカの自然史博物館に展示されたジオラマを撮影した写真の集積だ。野生動物の剥製などが、いかにもそれらしい風景画の中に配置されたジオラマ。それを、杉本諧調とでも呼ぶべき精密さで撮影する。眼前のものをそのまま映すという、写真の基本能力を最大限に発揮したかたちで撮るのである。そうすると、リアルに作られた虚像が、ほんとうにリアルになる。杉本自身の言い方だと、「虚も撮ってしまえば実になる」。彼のことばを続けて引こう。

これは(中略)「“写真は真なる存在を証している”と考えられていた」という前提がなければ成立しない捻りです。そして大雑把に申し上げれば、20世紀終わり頃まで、写真が真実をある程度担保していると考えられていた時代は続いたのです。
 ところがデジタル写真の登場はその前提を覆しました。私に言わせれば、その時点で写真に決定的な変質が生じたのです。これほどデジタル画像の氾濫する現代、今や写真が常に真を写すものだと考える人の方が少数派かもしれません。

———「杉本博司 スギモトノートで『絶滅』を読む」
(『図書』2026年7月号所収)より

 たしかに、現下のAI時代、写真や映像が精巧に修整・改変・自動生成されることなど、あたりまえ。写真は真実の証拠にならない。「これだけリアルに撮れば、剥製も本物みたいでしょう?」なんて、それこそ牧歌的な時代の稚戯として笑われかねない。

2.

 『杉本博司 絶滅写真』展の意図はなんだろう。銀塩写真の終焉を自嘲したいのか? 弔いたいのか? 逆に延命を図りたいのか? いや、警告したいのだろう。人類が終末に向かっているかもしれないことを。次のような発言から、それは明らかだ。

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