黒ビールの工場が実験音楽の拠点になる
わたしたちが陰謀に惹かれるのは、それが、真実とたった一人で向き合う重荷から私たちを解放してくれるからだ。
――1975年11月、殺害される数時間前のパゾリーニのインタビューより
子どもの頃、井の頭線は各駅停車だけだった。しかし高校に入ったら突然「急行」ができて、こんな短い路線で急いでも仕方ないのにな、と少しばかりシラけた気分になった――というのが、わたしの記憶である。ところが先日調べてみると、井の頭線に急行が走りはじめたのは1971年。まだ小学校にあがる前ではないか。吉祥寺から乗り込んだ電車が「急行」でとても驚いた時の気分、そのとき座っていた席や隣にいた友人との会話までちゃんと覚えているのに、どうやら全て「あとから作られた記憶」らしい。なんとも不思議だ。
この程度の勘ちがいはまあどうでもいいのだが、しかし陰謀論やフェイク動画となると、少しばかり深刻ではある。ご存じのように、いまや些細な偽情報から、アメリカのQアノンや日本の「中傷動画」といった巨大な偽情報まで、ネットにはありとあらゆる作りものがあふれている。もちろん偽の情報は大昔からあっただろう。けれどもテクノロジーの進歩によって、それが驚くほど精巧になり、さらにはとてつもないスピードで大量生産されるようになった点が厄介なのだ。かつて写真や動画は「動かぬ証拠」の代名詞だったけれども、いまではすっかり権威を失ってしまった。うわ、赤ちゃんと子猫がこんなに仲良しになれるのか……♡と、なぜか若干涙ぐみつつ何度も再生したショート動画が実はAI生成だった、といった経験を何度も重ねたおかげで、素直で純朴だったわたしも、ずいぶんと疑い深い性格になってしまった。

井の頭線。東京をタテに走る貴重な路線だから、わたしも最近まで随分と利用していた。しかし渋谷駅が現在のように大改悪されてからは、できるかぎり渋谷を避けて移動するようになったので、乗車回数は激減。まったく腹が立つ。
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マスネのオペラ《ウェルテル》第3幕に、「オシアンの歌」と呼ばれる名アリアがある。愛するシャルロッテを前にして「春風よ、なぜ私を目覚めさせるのか」と、自らの思いを古式ゆかしい歌詞に託す、切なくも端正な旋律だ。しかし、この詞は実際には古代スコットランドの詩人オシアン作ではなく、18世紀にジェイムズ・マクファーソンなる人物が「ゲール語から翻訳した」という体裁で自ら創作したニセモノ、というのが今日の通説である(つまり、すでにゲーテの『若きウェルテルの悩み』の段階で、この偽作は文学史のなかへ滑り込んでいたわけだ)。マクファーソンは最後まで「原本の写本」を提示しなかったというが、そのあたりの展開は、ショスタコーヴィチ『証言』騒動を思い出させなくもない。
マクファーソンの場合のように自己顕示欲の産物(?)であればさして罪はないけれども、世の中には危険な偽史だってある。いわゆる「コンスタンティヌスの寄進状」や「シオン賢者の議定書」のように、政治や宗教を動かし、時にはナチスのホロコーストのような悲劇へつながったりする例はその典型だし、狂信的なトランプ支持者によるアメリカ議会襲撃もその背景には偽の陰謀史観が横たわっていよう。
たしかに偽史にはどこか人を惹きつける魅力がある。一見するとゆるぎなく感じられる「常識」や「あたりまえ」の世界をひっくり返し、そのうしろにまったく別の物語が潜んでいる可能性を囁く甘い声。世界の裏側にある真実をほんの少しだけ覗かせてくれる知的エンターテインメント。誰もが一度くらいは、その怪しい誘惑にクラっときた覚えがあるはずだ。
一方で、偽史にはもうちょっと別の側面、いわば「善き側面」もある。
それは既存の権力構造に疑問符を投げかけ、その矛盾を浮かびあがらせる装置として働く場合だ(なんだか妙に堅い言い方になってしまった)。歴史は基本的には勝者によって、力を持つものによって書かれる。その過程で敗者は単に「負けた者」として片づけられ、ときには存在そのものを歴史から抹消されてしまう。たとえば長いあいだ女性が歴史の表舞台から見えなくなっていたのは、その典型的な例といってよいだろう。
しかし偽史は、時として「敗者」の側にたちながら、実現しなかった可能性、途中で潰えた選択肢、語られなかった声を拾いあげることができる。別の歴史、という問いを通じてわたしたちの現在を相対化し、その輪郭をあらためて浮かびあがらせることができるわけだ(一時期話題になった書物『鼻行類』――鼻で歩くという奇妙な生物の観察誌、もちろん全部ウソ――なども、その愉快な例のひとつと言えるかもしれない)。
また、偽史ではないけれども音楽史家のあいだで時として話題になるのが、「もしバッハに子どもがいなかったら、現在のような歴史的地位を得ていただろうか」といった仮定だ。カール・フィリップ・エマヌエルやヨハン・クリスティアンといった、一定の地位を得た息子たちが父の作品やその資料を後世へ伝えていなかったとしたら、バッハ像は多かれ少なかれ、現在とは違うものになっていただろう。歴史は作品そのものだけでなく、それを保存し、演奏し、語り継ぐ人々によっても形づくられるからである。
そう考えてみると、「偽史」の多様なありかたは、あらゆる既成の概念に疑問符を付そうとする現代芸術にとって、きわめて刺激的なテーマとなり得ることが分かってくる。アイルランド出身の作曲家ジェニファー・ウォルシュ(Jennifer Walshe)は、この問題を真正面から扱う、音楽界では貴重な人物といってよい。

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