インタビュー・文=八木宏之(音楽評論)
写真=Yuji Hori
取材協力=エイベックス・クラシックス、プロマックス
日本を代表するピアノの巨匠、清水和音と、ヴァイオリニスト、指揮者としても世界に活躍の場を広げる三浦文彰によるベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ全曲録音が2024年10月にリリースされた。アルバムのリリースを記念したリサイタル・シリーズが2025年2月、3月に完結する前に、ふたりに話を聞く機会を得た。清水&三浦の世代を超えたデュオが、満を持して取り組むベートーヴェン。その内奥に迫った。
清水さんとの出会いが録音を決断させた(三浦)
30代で全曲録音に取り組むのは良いこと(清水)
――ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタはヴァイオリニストにとって欠かすことのできないレパートリーですが、このタイミングで全曲録音に取り組もうと思ったのはなぜですか?
三浦 ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタはデビュー以来、リサイタルで度々取り上げてきました。バラバラにではありますが、10曲全てを演奏しています。全曲録音は、本当にすばらしいピアニストと出会ったときにチャレンジしたかったんです。清水さんと出会ったことが、今回全曲録音に踏み切った理由です。
清水 30代で1回目のベートーヴェンの全曲録音に取り組むのは、文彰くんにとってとても良いことだと思います。僕がピアノ・ソナタ全曲録音に取り組んだのも30代半ばでした。ベートーヴェンを演奏するには、生命力とバイタリティ、抜群の強さが必要です。肉体的に充実している30代の演奏家によるベートーヴェンは、円熟した50代、60代のそれとはまた違った魅力があります。文彰くんのベートーヴェンはとにかくパワフルでエネルギッシュです。とはいえ、文彰くんはすでに音楽家として完成しているので、演奏中に世代の違いを意識することはありませんでした。
――さまざまなヴァイオリニストたちと共演を重ねてきた清水さんとのレコーディングは、三浦さんにとってどういった体験だったのでしょう?
三浦 ベートーヴェンの全曲録音がこんなに簡単で良いのか⁉ とびっくりしました。リハーサルもスムーズに通りましたし、部分的な録り直しをほとんどすることなく、レコーディングを終えることができました。最初に録音した第1番の第1楽章だけプレイバックを聴いて、あとはこのままいけば大丈夫だと僕も清水さんも確信したんです。
清水 僕はもともと自分の録音を聴き返したくないタイプです。文彰くんとのレコーディングでも、細部を修正したりすることなく、ライヴのような、音楽の自然な流れを大切にしたいと思いました。演奏は「プレイ」ですから、文彰くんとふたりで大いに楽しみながらレコーディングに取り組みました。
ベートーヴェン/ヴァイオリン・ソナタ全集
〔第1番~第10番〕
三浦文彰(vn)清水和音(p)
〈録音:2023年6月,8月,2024年1月〉
[エイベックス・クラシックス(D)AVCL84162(4枚組)]
――1797年の第1番から1812年の第10番まで、ヴァイオリン・ソナタの作曲期間は15年にわたっています。その間に、ベートーヴェンは聴力を失い、精神は成熟しました。そうした変化を意識されましたか?
三浦 10曲のソナタに集中的に取り組むことで、ベートーヴェンのさまざまな側面に触れられたのはとても意義深い体験でした。第6番を書いたときはこもった気分だったのかなとか、第7番はアグレッシブで少し攻撃的だなとか、作曲当時の感情に想いを馳せながら、それぞれの作品にふさわしい音はどんなものか考えました。伝記などを通してベートーヴェンの生涯を知ることも大切ですが、それ以上に楽譜から得られる情報が多かったように思います。
清水 僕は基本的に楽譜しか見ません。音でしか表現できないものがあったから、ベートーヴェンは音楽を書いたのです。伝記よりも楽譜の方が多くの情報を含んでいますし、ダイレクトに伝わってきます。演奏に知識が入り込むと間違いが起こりやすくなるので、僕は本能を大切にして楽譜と向き合っています。
――今回のレコーディングにはストラディヴァリウス(1704年製「Viotti」)とグァルネリ・デル・ジェス(1732年製「カストン」)、ふたつの名器が用いられています。その経緯について教えてください。
三浦 ベートーヴェンのレコーディングと楽器を変えるタイミングが偶然に重なったのですが、ストラディヴァリウスからグァルネリ・デル・ジェスに、とてもスムーズに移行することができたのはラッキーでした。第1番、第5番、第8番はストラディヴァリウスで弾いています。グァルネリで録り直してもよかったのですが、第1番をはじめ、どれも良いテイクが録れていたので、ストラディヴァリウスとグァルネリがアルバムの中で共存することになりました。7年間にわたって弾いてきたストラディヴァリウスは本当に良い楽器で、楽器自体に固有の音があったので、それゆえに自分の音色を作っていく必要がありました。一方でグァルネリは、最初から自分の音が自然に鳴ったのでとても驚きましたね。
清水 新しいグァルネリは文彰くんと一体化して、共鳴していました。とはいえ、音楽に強く表出しているのは文彰くん自身なので、楽器の違いはもっとも重要なポイントではありません。演奏においては、楽器よりも奏者の個性の方がはるかに大きな部分を占めています。
みうら ふみあき 世界最難関と言われるハノーファー国際コンクールにおいて史上最年少の16歳で優勝。18年から〈サントリーホール ARKクラシックス〉のアーティスティック・リーダーに就任。21/22シーズンにロイヤル・フィルのアーティスト・イン・レジデンスも務める。22/23シーズンにはバルセロナ響、ウィーン室内管などと共演。ピリスとのデュオリサイタルを行なう。23年2月、3月にウィーン、パリ、日本、ソウルでリサイタルを行ない絶賛を博す。
しみず かずね ジュネーヴ音楽院にてルイ・ヒルトブラン氏に師事。1981年、弱冠20歳でパリのロン=ティボー国際コンクール・ピアノ部門優勝、あわせてリサイタル賞を受賞。これまでに、国内外の数々の著名オーケストラ・指揮者と共演し、広く活躍している。室内楽の分野でも活躍し、共演者から厚い信頼を得ている。これまでにソニーミュージックやオクタヴィア・レコードなどから多数のCDをリリース。2021年にはデビュー40周年を迎えた。桐朋学園大学・大学院教授。
文彰くんは大ホールでソロが弾ける稀有な存在(清水)
どちらも聴衆との距離が近く響きもすばらしい(三浦)
――2月23日には東京のサントリーホールで、3月16日には大阪のザ・シンフォニーホールで、おふたりのベートーヴェン・ツィクルスを締めくくるリサイタルが開催されます。
清水 座席数が2000人規模の大きなホールでソロを弾けるヴァイオリニストは稀有な存在です。文彰くんは、それが可能な音量とテクニックを持っています。ヴァイオリンとのデュオでは、ステージ上でしばしばヴァイオリンの音が聞こえないということが起こりますが、文彰くんの音はいつでもはっきりと聞こえています。
三浦 サントリーホールとザ・シンフォニーホールはどちらもワインヤード型なので、お客さんがとても近く感じられます。ただ単に空間が大きいだけでなく、響きも本当にすばらしいです。
清水 演奏家にとって、この2つのホールで弾くことは格別で、なにより幸せなことなんです。ベートーヴェンの音楽はあくまでエンタテインメントであることを忘れずに、シリアスになり過ぎず、お客さんに楽しんでいただきたいと思います。
――ありがとうございました。楽しみにしております。