数多いピアノ曲の中でも選りすぐりの難曲が並ぶ黒岩航紀の最新アルバムだが、黒岩はヴィルトゥオーゾという概念を技巧の誇示ではなく、「技術、音響構築力、形式感、そして演奏における主体性が統合された結果として立ち現れるもの」と語る。技巧を克服し、超越してこそ開ける音楽の世界。下田幸二氏の試聴記を掲載する。

黒岩航紀/ヴィルトゥオーゾの追憶
〔スクリャービン:幻想曲 ロ短調 作品28,スクリャービン:練習曲 嬰ハ短調 作品2-1,バラキレフ:東洋風幻想曲 《イスラメイ》,パデレフスキ:ミセラネア 作品16-2 変ト長調 《メロディー》,ホロヴィッツ:ビゼーのカルメンの主題による変奏曲,レヴィツキ:魅惑の妖精、リスト/ブゾーニ:パガニーニ大練習曲第3番 嬰ト短調 《ラ・カンパネラ》、リスト:パガニーニ大練習曲第4番 ホ長調 《アルペジオ》、リスト:スペイン狂詩曲〕
黒岩航紀(p)
〈録音:2024年9月11日~12日〉
[アールアンフィニ(D)MECO1091]SACDハイブリッド
【試聴・購入はこちら】
2026年6月17日発売予定
Text: 下田幸二(音楽評論家・ピアニスト)
黒岩航紀《ヴィルトゥオーゾの追憶》~真のヴィルトゥオジティの見事な具現~
ピアノという楽器は、不思議な楽器である。一人の奏者が、十本の指で、オーケストラにも匹敵する音響を生み出してしまう。繊細な歌も、嵐のような轟音も、きらめく装飾も、地鳴りのような低音も、すべて鍵盤の上に立ち現れる。その可能性の広さは無限大だ。
「ヴィルトゥオーゾ」という言葉からは、まず当然超絶技巧を思い浮かべるだろう。バラキレフ《イスラメイ》、ホロヴィッツ《カルメン変奏曲》、リスト《スペイン狂詩曲》、リスト=ブゾーニ《ラ・カンパネラ》といった曲名を見ただけでも、ピアノ好きなら思わず身構えるはずだ。しかし、このアルバムのおもしろさは、単に「凄い曲を凄く弾いている」というところにとどまらない。黒岩の演奏には、たしかに目の覚めるようなテクニックがある。けれども、それ以上に印象に残るのは、技巧に宿る歌である。技巧は常に音楽と共存し、歌を生かし、響きに生命を吹き込み、曲のドラマを鮮やかに立ち上げる。
アルバムはスクリャービン《幻想曲》から始まる。黒岩はこの作品の濃厚なロマン的情念を内声の動きや和声の陰影で丹念に浮かび上がらせる。旋律は深く歌われ、響きは幾層にも重ねられるが、決して曖昧な霞の中ではない。それは、彼自身想い入れが深いロシアへの憧憬であり、このアルバムのタイトルにもなっている「ヴィルトゥオーゾの追憶」として全体の精神を象徴している。続く《練習曲》嬰ハ短調作品2-1では、若きスクリャービンの憂愁が、静かな痛みとして立ち上がる。そして《イスラメイ》。ここでは、まさに鍵盤の魔術師としての黒岩が現れる。豪快でありながら、余裕綽々。東方的幻想、レズギンカ風の舞曲的推進力、そしてリサイタル・ピースとしての華麗さが、大きなうねりとなって聴き手を巻き込んでいく。ライヴであったなら、聴衆は思わず快哉を叫んだに違いない。

次にパデレフスキの《メロディー》が置かれているのもいい。ここでアルバムの表情が、ふっと変わる。名人芸の火花のあとに広がる温かなまなざし。この演奏があることで、この「ヴィルトゥオーゾ」を単なる剛腕名人ではなく、歌心をもった詩人として再認識させる。ここまで聴き進めると、本盤が「アルティメイト・サウンド・シリーズ」として、グリーンコートレーベルを使用し、音質に徹底してこだわりながら黒岩の芸術を支えていることにも、しみじみとした好感が生まれてくる。
そして、聴きものはホロヴィッツ《カルメン変奏曲》である。この曲は、どうしてもホロヴィッツ本人の強烈なイメージがつきまとう。しかし黒岩は、そこに臆することはない。落ち着いた導入から、次第に華やかに、洒落た表情を帯び、やがて悪魔的な輝きを放ちながら、最後には聴く者をぐいぐいと巻き込んでいく。そこには、偉大なる名人への憧れと、現代のピアニストとしての自立したまなざしが共存している。

後半、レヴィツキ《魅惑の妖精》~リスト=ブゾーニ《ラ・カンパネラ》~リスト《パガニーニ大練習曲》第4番、そして終曲の《スペイン狂詩曲》へと至る流れも圧巻である。《魅惑の妖精》は揺らめく和声からニンフの歌声と自在なワルツが誘惑する。ブゾーニ編の《ラ・カンパネラ》は、リストの原曲がすでに魅力的であるところに、さらにフィギュレーションを加えたいわば危険な作品である。しかし黒岩の演奏には、まるで最初からオリジナルであるかのような、居心地のよい説得力がある。その感覚は《パガニーニ大練習曲》第4番にも引き継がれ、パガニーニとリストの友情のように軽やかな品格として響く。そして最後の《スペイン狂詩曲》では、黒岩のスケールの大きさが存分に示される。民族的な色彩、リストならではの壮麗な響き、終結へ向かうエナジー。それらは、積み重ねられた経験と構築力―おそらく黒岩が「追憶」と呼びたかったものがあってこそ、到達し得る境地である。

真のヴィルトゥオジティとは、単なる技巧の過剰ではなく、音楽の内部に潜む熱、構造、詩情、そして演奏者自身の生の感触までも、鍵盤上に一瞬のうちに結晶させる能力のことである。黒岩航紀はそれをよく知っている。そして、その音楽の中心にあるのは、彼のまっすぐな音楽への愛情だ。
ピアノを聴く喜び、ヴィルトゥオーゾを聴く興奮を、あらためて想い出させてくれる充実の一枚である。

黒岩航紀/ヴィルトゥオーゾの追憶
〔スクリャービン:幻想曲 ロ短調 作品28、スクリャービン:練習曲 嬰ハ短調 作品2-1、バラキレフ:東洋風幻想曲 《イスラメイ》、パデレフスキ:ミセラネア 作品16-2 変ト長調 《メロディー》、ホロヴィッツ:ビゼーのカルメンの主題による変奏曲、レヴィツキ:魅惑の妖精、リスト/ブゾーニ:パガニーニ大練習曲 第3番 嬰ト短調 《ラ・カンパネラ》、リスト:パガニーニ大練習曲 第4番 ホ長調 《アルペジオ》、リスト:スペイン狂詩曲〕
黒岩航紀(p)
〈録音:2024年9月11日~12日〉
[アールアンフィニ(D)MECO1091]SACDハイブリッド
【試聴・購入はこちら】
2026年6月17日発売予定
企画・制作:ナクソス・ジャパン
