今こそ、オーマンディ!特別企画
今こそ、オーマンディ!

黄金のアメリカン・サウンドの立役者の
5人のハンガリー出身指揮者について

黄金のアメリカン・サウンド⑤

 今こそ、オーマンディ! アメリカでの活躍で知られますが、実はハンガリー生まれのオーマンディ。彼と同じくハンガリー出身の大物指揮者は何人もいます。列挙してみると……

 ・フリッツ・ライナー(1888~1963)
 ・ジョージ・セル(1897~1970)
 ・ユージン・オーマンディ(1899~1985)
 ・アンタル・ドラティ(1906~1988)
 ・ゲオルク・ショルティ(1912~1997)

 “黄金時代”と形容される、20世紀アメリカ音楽界の代名詞といえる人物がずらり。なぜ彼らはハンガリーからアメリカへ渡ったのでしょうか? それぞれの音楽の特徴は何だったのでしょうか?
 今回の記事では、増田良介さんのナヴィゲートで、この5名の指揮者について深めます。各3タイトルのディスク案内も! ことし没後40年を迎えるオーマンディが駆け抜けた時代の一側面が、五者のありかたを通して鮮やかに浮かび上がります。

文=増田良介(音楽評論)

文化都市ブダペストに生まれ、
アメリカで巨匠となった指揮者たち

20世紀アメリカのオーケストラ界にはたくさんのスター指揮者がいたが、バーンスタインやスラットキンのような例外を除けば、彼らのほとんどはアメリカ生まれではなく、ドイツ、フランス、ロシアといったヨーロッパ(ときにはアジア)諸国の出身者だった。なかでも、ハンガリー出身の指揮者たちの活躍は目覚ましかった。ここでは、ライナー、セル、オーマンディ、ドラティ、ショルティという、いずれもアメリカのオーケストラ史を語るうえで欠かせない5人の巨匠たちを取り上げる。

ところで、実は彼らには共通点がある。オーストリア=ハンガリー帝国だった時代のブダペストでユダヤ系の家庭に生まれているという点だ。しかも、ウィーン育ちのセルを除き、他の4人はブダペストのフランツ・リスト音楽院で教育を受けている。

ブダペストは、オーストリア=ハンガリー帝国の主要都市として長い文化的蓄積を持っている。しかし、第一次大戦後、帝国は解体、ハンガリーも、独立したはいいが、政治体制は混乱し、領土は縮小してしまった。そしてその責任があるとしてやり玉に挙げられたのがユダヤ人だった。つまり、彼らの若いころ、ブダペストのユダヤ人は、文化的な環境で良質の教育を受けられる立場にはあったが、反ユダヤ主義の強まりによって、それに見合う職を得ることが難しいという状況にあったのだ。彼らがアメリカに来た経緯はそれぞれだが、その背景にこのような事情があったことは押さえておいていいだろう。

フリッツ・ライナー:厳格なるシェフ

まずはフリッツ・ライナー(1888~1963)だ。ライナーは、フランツ・リスト音楽院でピアノや作曲を学んだが、在学中から指揮へと関心が移り、卒業後、各地の歌劇場で活動した。ザクセン(現・ドレスデン)国立歌劇場時代には、指揮者としても活躍していたリヒャルト・シュトラウスと親しくなったが、もっといろいろな場所で指揮をして経験を積みたいという理由で辞任、1922年に渡米し、シンシナティ交響楽団の音楽監督となる、1928年にはアメリカ国籍を取得した。シンシナティの後、ピッツバーグ交響楽団やメトロポリタン歌劇場などを経て、シカゴ交響楽団の音楽監督に就任したのは1953年のことだ。シカゴでのライナーは強大な権力を持ち、厳しく鍛え上げ、多くの楽員を入れ替えて、世界でもトップクラスのアンサンブルを作り上げた

ライナーは、ステレオ録音初期の1963年に世を去ったが、当時最先端の技術を持っていたRCAは、ライナーとシカゴ交響楽団の演奏を非常に鮮明な録音で記録してくれた。レパートリーでは、やはり個人的に親交のあったバルトークやリヒャルト・シュトラウスに定評があるが、シュヴァルツコップが無人島へ持っていくディスクとして挙げたというシュトラウス・ファミリーのワルツ集、米国に来る前、歌劇場でさかんに指揮していたワーグナーなどもすばらしい。

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