
取材・文=中村真人(音楽ジャーナリスト)
この変化の激しい時代にあって、パーヴォ・ヤルヴィとドイツ・カンマーフィルハーモニー・ブレーメンは、20年以上もの芸術的パートナーシップを継続し、数多の名録音を世に送り出してきた。そんな彼らが現在取り組んでいるのが、シューベルトの交響曲の全曲録音である。4月末、ベルリンのテルデックス・スタジオで行なわれた交響曲第1番のレコーディングセッションを訪ね、現場を支える2人のプロに話をうかがった。

シューベルト:交響曲第5番,同第6番《小ハ長調》
パーヴォ・ヤルヴィ指揮ドイツ・カンマーフィルハーモニー・ブレーメン(DKAM)
〈録音:2025年12月〉
[RCA (D)SICC10490]SACDハイブリッド
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シューベルト:交響曲第8(7)番《未完成》,同第4番《悲劇的》
パーヴォ・ヤルヴィ指揮ドイツ・カンマーフィルハーモニー・ブレーメン(DKAM)
〈録音:2025年5月〉
[RCA (D)SICC10489] SACDハイブリッド
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盟友フィリップ・トラウゴットとの共同作業
2004年6月18日、その2日前にバート・キッシンゲンのレーゲンテンバウでベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番と第5番(独奏:仲道郁代)を録音し終えたパーヴォ・ヤルヴィとドイツ・カンマーフィルハーモニー・ブレーメン(DKAM)は、ベルリンのナレーパ通りにあるフンクハウスに場所を移し、ベートーヴェンの交響曲第7番のレコーディングを開始する。
これこそが、のちにパーヴォとDKAMのトレードマークともなるベートーヴェンの交響曲全集録音の幕開けの瞬間だった。フィリップ・トラウゴットは、仲道とのベートーヴェンのピアノ協奏曲集とこの《第7》から最新盤に至るまで、ごくわずかな例外を除き、彼らの録音のプロデューサーを務めてきた。ヤルヴィとは若い頃からの盟友といえる間柄だ。
「パーヴォとは1987年、ウェストバージニア州モーガンタウンで開催された指揮者養成プログラムで出会いました。キャンパス内の宿舎で部屋が隣同士だったんです。すぐに意気投合したのは、ユーモアのセンスが似ていたから(笑)。もちろん音楽への情熱も共通していますが、このユーモアの要素が私たちの友情の重要な絆であり続けています」

ニューヨーク在住のプロデューサーとして、ズービン・メータ、アンドレ・プレヴィン、ピンカス・ズーカーマンなど著名な音楽家と共同作業をしてきたトラウゴットは、パーヴォの音楽スタイルの特徴をどう見ているのだろうか。
「まずは彼のフレージングへの驚異的なこだわりだと思います。一曲の最初から最後まで、あるいは4小節、8小節といった単位でも、その意味を明らかにするためにどうフレーズを紡ぐかにきわめて意識的です。時には執着といえるほどにね。もうひとつの特徴は、ディテールの透明性。長い旋律のラインを生かしつつ、同時に内声部の動きを克明に描き出す。録音セッションでは、このふたつの側面の両立に多大な時間を割きます」
このインタビューの5日前、筆者はハンブルクのエルプフィルハーモニーで、彼らが演奏するシューベルトの交響曲第1番と第3番のプログラムを聴いた。欧州ツアーの最終公演ということもあり、「そのままライヴ収録のCDになるのでは」と唸るほどの完成度だったが、彼らの常として今日においては贅沢ともいえるセッションを組む。なぜなら、トラウゴットが語るように、彼らがCD制作において目指すのは”単なるコンサートの記録ではなく、パーヴォの解釈におけるその作品の理想的な姿を作り上げる”ことだからだ。
「パーヴォと仕事をするとき、私はしばしばBad Cop(嫌われ役の警官)になります。私が音程やアンサンブル、バランスといった技術的なディテールを厳しく指摘し、オーケストラを追い詰める。それによって、パーヴォはGood Cop(良い警官)として、より芸術的でインスピレーションに満ちた表現に集中できるわけです。
今回のシューベルトに関しては、パーヴォは古典的なアプローチよりも、よりロマンティックなシューベルトを求めています。DKAMはピリオド奏法の影響も受けているので、時には『もっとヴィブラートをかけて歌って!』と要求することもあります」
躍動感と緻密さの両立
彼らのレコーディングに欠かせないもう一人の存在が、オランダ人エンジニア、ジャン=マリー・ヘイセンだ。やはりベートーヴェン・ツィクルスの2007年ごろから参加している。
「ドイツ・カンマーフィルの最大の特徴は、演奏する喜びです。音楽が本当に楽しくなければならない、という姿勢が音に現れていて、そのエネルギーが聴き手を熱狂させる。あとはもちろん、技術的な精度の高さ。この躍動感と緻密さが両立していることが、彼らの録音を特別なものにしています。パーヴォはそれを引き出すのが本当に上手い」

午後のセッションが始まった。トラウゴットとヘイセンのそばに座って、録音を見学させてもらう。シューベルトの交響曲第1番より第2楽章。作曲家がわずか16歳で書いたみずみずしい音楽だ。トラウゴットはスコアをチェックしながらスピーカーから流れてくる音に耳を傾け、ヤルヴィとオーケストラのメンバーに指示を出していく。「8小節目の木管の和音、もう少し精度を上げよう」、「23小節目の新しいテンポでの出だしは、アンサンブルを完璧に」など、特に音程やリズムについて、ミリ単位ともいえる微細な指示を出し、テイクを重ねていく。
トラウゴットは自らの録音の進め方としてこんなことを語っていた。「1小節ごとに止めていては、音楽の流れが失われてしまいます。まずは最初から最後まで通して演奏し、音楽の雰囲気や流れを保ったまま、90%を完成させることを目指す。そのうえで最初に戻って、細部を仕上げていきます」と。私が聴いたのは、残り10%の追い込みの作業だったわけだ。
約1時間半のセッションが終わり休憩時間に入ると、パーヴォがブースにやって来て、トラウゴットと録音したばかりのテイクを聴き直す。第2楽章冒頭の3種類のテイクを聴き比べた2人は「最初のがベストだね」という結論に達するが、パーヴォは「ここで第2ヴァイオリンのテンポがわずかに遅れている」と、より良いものを作るための検証を怠らない。録音セッションを終えたのちも、ニューヨークのトラウゴット、アムステルダムのヘイセンは、その時々で指揮する場所にいるパーヴォとリモートでつなぎ、データをやり取りしながら、細かい修正を重ねる。時には深夜におよぶこともあるそうだ。

ヘイセンに、このコンビの録音では初めてというテルデックス・スタジオの印象を尋ねてみた。「過去の多くの録音をしたフンクハウスは、東独時代の1950年代の古い放送スタジオで、天井が高く、透明感のある響きが特徴です。ただ、空調や湿度の管理が難しい面もありました。テルデックス・スタジオは、ハイドンの交響曲やシューベルト交響曲第5番&6番を録音したDKAMの本拠地ブレーメンの練習場よりも少し広いのですが、まずセンチ単位でブレーメンと同じマイクのセッティングを再現し、そこを基準にしてマイクの高さやオケとの距離を微調整しました。クリアで豊かな広がり、自然なバランスを兼ね備えたプロフェッショナルなスタジオですね」と気に入った様子だ。
パーヴォは決して妥協しない
ようやく一息ついたという表情で、トラウゴットがプロデューサーとしての極意をこんなふうに話してくれた。「私の任務を一言で表すならば、”ジャッジ”すること。音程の良し悪しだけでなく、奏者たちが緊張しすぎていないか、疲れが見えていないか、休憩を入れるべきタイミングはいつか、といったスタジオ内の空気も読みながら、適切に判断し続けるのが自分の仕事なのだと思います」
この20年を振り返って、特に忘れられない出来事があるという。パーヴォ・ヤルヴィ&DKAMとの最初のプロジェクト、バート・キッシンゲンでの録音のことだ。
「ステージ脇の階段でパーヴォと会った時、私の腕を強く掴んでこう言ったんです。冗談抜きの真剣な目でね。『フィリップ、覚えておいてくれ。これは完璧でなければならないんだ!』と。その時の腕の感触は今でも覚えています。パーヴォは決して妥協しない。それ以来、私は彼の求める完璧を実現するために、あらゆるツールを駆使して取り組んできました。今回のシューベルトも、その延長線上にある素晴らしい旅のひとつです」

彼らの音楽活動そのものを旅と考えるなら、パーヴォが語ってくれたこのエピソードも味わい深く感じられる。
「実は私たちは、ベートーヴェンの交響曲ツィクルスのすぐ後にシューベルトに取りかかりたいと考えていたんです。結果的にはシューマン、さらにブラームスの交響曲を先に録音することになったわけですが、今振り返れば、すべての経験を経てシューベルトに戻ってきたことは、私とDKAMにとって円が閉じるような、非常に意味のあるプロセスだったと感じています」
パーヴォ・ヤルヴィとDKAMが、プロフェッショナルな音の職人たちと端正をこめて作り上げる1枚1枚のディスクは、いずれも”レコード芸術”と呼ぶにふさわしい逸品だ。スタジオでのその仕事の密度に圧倒されながらも、交響曲第8(9)番《ザ・グレイト》へとつづく彼らとの旅に同行したいと思った。

シューベルト:交響曲第5番,同第6番《小ハ長調》
パーヴォ・ヤルヴィ指揮ドイツ・カンマーフィルハーモニー・ブレーメン(DKAM)
〈録音:2025年12月〉
[RCA (D)SICC10490]SACDハイブリッド
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シューベルト:交響曲第8(7)番《未完成》,同第4番《悲劇的》
パーヴォ・ヤルヴィ指揮ドイツ・カンマーフィルハーモニー・ブレーメン(DKAM)
〈録音:2025年5月〉
[RCA (D)SICC10489] SACDハイブリッド
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取材協力=ソニーミュージック・レーベルズ
