インタビュー

ブゾーニ版《ゴルトベルク変奏曲》が
問いかける新しい感動を受け取って
――ピアニスト、イ・ユンスに聞く

インタビュー・文=飯田有抄(クラシック音楽ファシリテーター)
カメラ=各務あゆみ
取材協力=東京エムプラス

ブゾーニと自分を
どこか重ね合わせて

イ・ユンスは韓国に生まれアルゼンチンとアメリカで育ったピアニスト。10代で挑戦した1997年ブゾーニ国際コンクールにおいて最高位の2位に輝いた。ブゾーニといえばJ.S.バッハ作品のピアノ編曲版などで知られ、2024年は彼の没後100年に当たる。ユンスは彼の功績を讃えて「メモリア」と題するアルバムをリリースした。
「私はブゾーニと自分とをどこか重ね合わせているところがあります。ブゾーニはイタリアに生まれドイツで活躍しましたが、イタリアでは『もうイタリア人ではない』と言われ、ドイツでは『ドイツ人じゃない』と言われたそうです。私自身も韓国で生まれ、ブエノスアイレスで育ち、アメリカやドイツに住み、今は韓国に戻りましたが、自分は『どこの国にも属していない』という感覚があるのです。そんな私はブゾーニを近しく感じ、彼の音楽に慰められる部分があります」

Yoon Soo Lee 韓国生まれでアルゼンチンアメリカに育つ。1997年にイタリアのボルツァーノで開催されたブゾーニ国際ピアノコンクールで最高位受賞。合わせて聴衆賞、ヤマハ賞、最年少受賞者としてのローターアクト賞も授与される。ブエノスアイレスで開催された第1回マルタ・アルゲリッチ国際ピアノコンクール入賞。北米、ヨーロッパ、アジア、南米でソロ、室内楽、オーケストラでのソリストとして活躍。2015年には、韓国の朴大統領が出席したソウル・アーツ・センターでの全国放送の新年コンサートに出演。室内楽奏者としてソウル・フィルハーモニー管弦楽団の首席奏者と共演。ピアニストとしての活動とは別に、自身の名を冠したブランドを設立し、JOY5、GAON5、DAONのアンサンブルを自身の音楽観で発表し、学生とプロのミュージシャンの両方に前向きな教育と音楽体験を提供しており、比類のない創造性と独創的な解釈が高く評価されている。

ユンスがピアノを始めたのは遅く、初めて受けたコンクールがブゾーニ国際コンクールだった。
「何事も自分で考えて決断するタイプでしたので、ピアノを習い始めたのは10歳からでした。なので、子どもの頃からコンクールに出たり音楽大学に進んだりといった一般的なルートを経ていません。先生たちからは『音楽家になれる可能性はない』と言われ、どうしたらこの状況を変えられるかと考えました。そこでブゾーニ国際コンクールを受けようと決めたのです。
このコンクールは書類審査を通過後、5次までステージのある長期戦です。最後の方は鏡に映る自分の顔をみて、自分はどうなってしまうんだろう、と思いましたね。課題曲は自由で、多くの作品を弾きますが、私は2次審査の時にブゾーニの《24のプレリュード》を演奏しました」

改めて取り組んだ結果
《シャコンヌ》が好きになりました

今回のアルバムの企画が持ち上がったのは2023年のクリスマス頃。レコード会社との打ち合わせでふと「没後100年にこんなアルバムがあったら……」と語ったことがきっかけ。収録曲はバッハ=ブゾーニで最もよく知られる《シャコンヌ》、演奏機会の少ない《ゴルトベルク変奏曲》、そしてコラール前奏曲《いざ来ませ、異邦人の救い主よ》の3曲だ。
「《シャコンヌ》は個人的にはあまり好きな作品ではなかったのですが、バッハ=ブゾーニといえば多くの人が思い浮かべる作品ですし、自分なりにアナリーゼをして取り組んだところ、好きになれました。人生には最初から好きになれる曲もあれば、だんだんと受け入れられる曲もありますね。好きになれるというのは、美しい瞬間です。ブゾーニの視点は、おそらくバッハよりも、オルガン的なというか、より広いスペクトラムの感覚で書かれていると感じます。
コラール前奏曲は、私が14歳のとき初めて開いたリサイタルの1曲目として演奏した、思い出の詰まった作品です」

中心となるのは《ゴルトベルク変奏曲》だが、ユンスはこの録音にあたり、初めて取り組んだ作品だという。ブゾーニ版は音を付加したり変更したりといったアレンジが意外にも少ない。ただしブゾーニは「コンサート用」として、30曲の変奏から大胆にも9曲減らし(その大半は「カノン」)、全体を3つのグループ分けして捉えることを提唱している。また、最後はたっぷりと手を加え、アリアがそのままダ・カーポで繰り返されるのではなく、モダンピアノの低音域を豊かに響かせるアレンジがなされている。
「ブゾーニ版については、聞き慣れない、受け入れ難いと思う方はやっぱりいらっしゃると思います。SNSなどでも、『ここが違っている』とか『合ってない』といったコメントが散見されます。ただここで大切なのは、オリジナルが正解だ、バッハの意に反している、といったこと、良い/悪いなどということではなく、ブゾーニが持っていた視点はどういったものなのだろう、と考えながらアプローチすることでしょう。そして、新しい視点からインスピレーションを受けることだと思うのです」

メモリア~バッハ=ブゾーニ:ゴルトベルク変奏曲
〔J.S.バッハ(ブゾーニ編):シャコンヌ,ゴルトベルク変奏曲,コラール前奏曲《いざ来ませ、異邦人の救い主よ》〕
イ・ユンス(p/ベーゼンドルファー225)
〈録音:2024年2月〉
[AudioGuy Records(D)AGCD0172]

音楽に「正解はない」ので
コーダやリピートは即興的に

ユンスの演奏でユニークなのは、第5、7変奏ではコーダ的に冒頭のフレーズに回帰したり、第4、10、22変奏ではリピートを行なったりしている(ブゾーニはリピートを推奨していない)。
「コーダやリピートは、演奏中にふと自分の感覚に従って即興的に行ないました。バロック時代の演奏習慣として、即興は普通のことですね。曲に入る前に、即興的にカデンツを演奏するのも普通でした。現代のコンサートでの演奏習慣では、『正しい/正しくない』に囚われ過ぎているかもしれません。バロック時代には、今の私たちが失ってしまったものが豊かにあった。今回のアルバムでは、そこに向かっていきたいという思いもありました。当時の人々が行なっていたことを想像する。それこそは私がピアニスト、芸術家として生きていく上での力になるのです。
リピートについて、往年のピアニストであるリヒテルは『リピートすべき』と唱えていましたね。ちなみに、私の先生のお父様がリヒテルの友人で、誕生日に指輪をプレゼントしてくれたそうです。私がコンクールを受けた時その指輪を貸してくださり、お守りとしてポケットに入れて演奏したんですよ。リピートに話を戻すと、ラフマニノフは聴衆の反応を見て、リピートするかしないかを決めていたそうです。つまり、ここにも『正解はない』のです。録音の時はたまたまそうなったという風に感じていただければと思います。私もコンサートでは、聴衆とのコミュニケーションを大切にしたいと思っています」

取材は2024年10月24日に音楽之友社で行なわれたが、その2日後にタワーレコード渋谷店でミニライブとサイン会も開催された。今後の録音については「まだ未定です」とのことだったが、「プーランク最晩年のクラリネット・ソナタやオーボエ・ソナタをやりたいですね」とにこやかに語っていた。

使用楽器は、低音域に4鍵拡張されたベーゼンドルファー225。ベーゼンドルファーのエクステンドキーは、ブゾーニが《対位法的幻想曲》で希望したことで開発されたものである。
「録音はソウルのスタジオですが、ここにはピアノが2台あり、1台はチョン・ミュンフンさんのベーゼンドルファーで、もう1台が今回使用したものです。コントロールが少々難しい楽器でしたが、録音エンジニアさんが、『ヴィンテージ風味のある、ややブラックミュージック的な雰囲気のある音だ。今回の《ゴルトベルク》に合っているのでは』と。どこの国にも属していないと感じる私にとって、このピアノが自分のやりたいことをやらせてくれるように感じました」

このアルバムを通じて、ユンスが伝えたかったメッセージとは?
「ブゾーニの音楽については、これから真価が見出される時代になるのではないかと思います。現代の私たちは、もっと「包容力」を持つべきではないでしょうか。社会ではLGBTQ運動のようなことが唱えられていますが、音楽の世界では今なお『こうしないといけない』といったことが言われ、それがどんどん強くなっている気もします。このアルバムを通じ、受け入れる力、新しいものに感動する力を、みなさまに受け取っていただけたら嬉しいです」

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