
インタビュー・文=沼野雄司(音楽学)
撮影=ヒダキトモコ
取材協力=ソニー・ミュージック
2024年に惜しまれつつ引退した指揮者・井上道義。そのラスト・コンサートとなる12月30日のサントリーホール公演を目前に控えた12月16日・17日、”ラスト・スタジオ・レコーディング”が行なわれた。
最後の共演者となったのは、ピアニストの仲道郁代。彼女の「もう一度、井上マエストロとモーツァルトを演奏したい」という強い希望によって、この録音が実現した。
そのレコーディングの模様について、音楽学者の沼野雄司氏が訊いた。

ザ・ラスト・モーツァルト
〔モーツァルト:ピアノ協奏曲第20番,同第23番〕
仲道郁代(p)井上道義指揮アンサンブル・アミデオ
〈録音:2024年12月〉
[RCA(D)SICC19086] SCACハイブリッド
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共演の幸せと、いつか終わりがくる哀しみと
――このレコーディングに至った経緯について教えてください。
仲道 井上マエストロが「引退」を表明されたあと、演奏会でモーツァルトの20番と23番をご一緒する機会があったのですけれど、そのとき、ああ、これがマエストロとの最後の共演になるのかと、終演後に舞台袖で思わず涙が出てきた。それで、なんとかもう一回、この2曲をご一緒できないかなと考えたんです。
――仲道さんからのご提案だったのですね!
仲道 はい。でも、マエストロは引退に向けてかなりスケジュールが詰まっていたし、しかもときおり体調を崩されたりもしていたので、いったい本当にこの録音が可能になるのか最後まで不安でした。そうしたら、12月のぎりぎりにぽっかりとレコーディングが可能な時間が空いて。
――セッションは3日間ですか?
仲道 2日間です。とても限られた時間でしたので、初日から祈るような気持ちでした。結局、曲を通したのは2回くらいだったかな……。だから、テイクも基本的には2つしかないですし、セッション録音とはいっても、ほとんどライヴみたいなものなんです。
――僕も何度もディスクを聴きましたが、その空気感はCDから如実に感じられた。
仲道 不思議なことにあの時には、例えばこんな演奏にしようとか、そういう気持ちが全然わかなかったんです。ただ、ホールにいる私たちが一緒にモーツァルトを共にした、その瞬間が記録された、と。私も年齢を重ねていますから、いつかは演奏家として終わりが来る。マエストロと一緒にモーツァルトを弾く幸せと、そしていつかは誰もが終わりを迎える寂しさとを両方、あの場では皆が共有していたように思います。

仲道郁代 Ikuyo Nkamichi
ピアニスト。第51回日本音楽コンクール第1位、ジュネーヴ国際音楽コンクール最高位、エリザベート王妃国際音楽コンクール入賞。以後ヨーロッパと日本で本格的な演奏活動を開始。2018年よりベートーヴェン没後200周年の2027年に向けて「仲道郁代Road to 2027プロジェクト」をスタートし、リサイタル・シリーズを展開中。現在、ソニー・ミュージックジャパンと専属契約を結び、多数のショパン作品をはじめ、レコード・アカデミー賞受賞CDを含む「ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ全集」や、「モーツァルト:ピアノ・ソナタ全集」、「シューマン:ファンタジー」、古楽器での録音など多数リリースしている。一般社団法人音楽がヒラク未来代表理事、一般財団法人地域創造理事、桐朋学園大学教授、大阪音楽大学特任教授。
https://ikuyo-nakamichi.com/
――井上マエストロと曲の解釈について話し合いはされましたか?
仲道 事前にどんな演奏が好きなのかとか、どういう曲だと感じているのかについて、いろいろな話をしました。よく覚えているのは、マエストロが23番について「響きに包まれたい」と仰っていたことです。とても明るい響きだけれども、人が亡くなるとか、何かを失うとかを経ての明るさなんだと。
――本番の時には彼はどんなことを?
仲道 初日に20番から始めたんですけど、最初のティンパニのところ以外は、ほぼ言葉での指示はなくセッションが進みました。終わった時にマエストロが「いい時間だった、本当にいい時間を過ごせてよかった」と仰ったのが、とても印象に残っています。
――そういえば、レコーディングの時に、全員、白い服を着たとか・・・?
仲道 そうなんです。マエストロが、みな白い服で、と仰ったので、全員が白っぽい服――グレー気味だったり、ベージュ気味だったりも含めて――でホールに来て、2日間録音をしました。もちろん服のせいだけではないんですけれども、普通に普段着で来て「おはようございます」って言って弾いて、終わったらさよなら、というセッションとは全然違っていたんですね。ちょっと天国的なというか。それで……
――それで?
仲道 レコーディングの最後、いったいどういう風に終わるのだろうと思っていたら、マエストロは「はい、おしまい」とあっさり仰ったんです。私が思わず「え? これで終わり?」って言ったら、マエストロは「そうだよ、終わりっていうのはこういうもんだよ」と。それでみんながふわりと笑って終わった。考えてみれば、モーツァルトの音楽自体も、そんなふうに、ふっと微笑みを残して終わるという感じですよね。そんなことも相まって、忘れられない経験になりました。
――井上さんらしいなあ。
仲道 わたしは、自分のCDをそんなに何度も聴きなおす方じゃないんです。というのも、後から、ああここはこうすればよかった、なんて気になってしまうから。でもなぜか、この録音はその後何度も聴いてますね。やっぱりちょっと特別なんです。

10年をかけたリサイタル・シリーズ「The Road to 2027」
――あの録音の、なんともいえない儚さみたいなものの原因が少し分かった気がします。さて、リサイタルのシリーズについても少し教えてください。そもそも10年がかりという巨大なスケールはどうして?
仲道 2017年に演奏活動30周年を迎えて、これから私はどういう演奏家として生きていくんだろうと考えました。単に、その時その時に弾きたいものを選ぶのではなくて、自分は何者か、ということを次の40周年にむけて考えなければいけないと思った。このシリーズは春と秋があるんですけれど、春はベート―ヴェンを核にして、それを他の曲とうまく組み合わせたプログラム、そして秋は自分のピアニズムを広げるために、普段はあまり弾いてこなかったスクリャービンやラフマニノフ――今年の秋はオール・ラヴェルです――を含めたプログラムを組んでいます。新しい曲が多いと、準備が本当に大変なんですけれども (笑)。
――その10年も、既に終盤にさしかかっていますね。
仲道 本当にこのシリーズを始めてよかったと思っています。自分自身が何を考えて、何を表現したいのかがどんどん明確になってきた。そして自分に対してかなりの負荷をかけているので、2027年の最後までたどり着いたら、その先の新しいわたしが見えるだろうという確信が感じられる。
――まるで求道者のような……。最後の2027年の春は、《ハンマークラヴィーア》と、ショパンの第2番のソナタですね。
仲道 実はね、ショパンの第2番は人前で弾いたことがないんです。
――ええ!? そうなんですか。
仲道 わたしが33歳の時に母が他界したんですけれども、出棺の時、母の遺した願いで第3楽章の〈葬送行進曲〉を弾きました。そうしたらもう、人前で弾けなくなってしまって……。だけれどこの10年のシリーズの最後には「生と死の揺らぎ」というテーマにちゃんと向かい合いたい。先に進むためには、これをどうしても弾かなければいけないと思ったんです。
――そんな理由があったのですか……。僕も一聴衆として、仲道さんの道程をホールで確かめたいとあらためて感じています。今日はありがとうございました。

ユニオンツール クラシック プログラム
The Road to 2027
仲道郁代ピアノ・リサイタル《高雅な踊り》
〔ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第24番《テレーゼ》,同第25番,同第26番《告別》,リスト:メフィスト・ワルツ第1番《村の居酒屋での踊り》,ラヴェル:優雅で感傷的なワルツ,ショパン:ワルツ〈告別〉Op.69-1,同Op.64-2,ポロネーズ第6番《英雄》〕
日付 6月1日(日)
開演 14:00
会場 サントリーホール
詳細 https://www.japanarts.co.jp/concert/p2116/