
インタビュー・文=船越清佳(ピアニスト・音楽ライター)
撮影=松永 睦
取材協力=ナクソス・ジャパン
若手アーティストのデビューアルバムには、誰もが聴き知る王道的な作品が並んでいるのが通例だ。しかし、田所光之マルセルはアドルフ・フォン・ヘンゼルト(1814〜1889)、それも「練習曲全集」という規格外の選択をした。チャレンジングな精神と、レパートリーの地平線を遠く見渡す音楽家としての姿勢が伝わってくる。
ヘンゼルトの練習曲は、一聴してショパンやメンデルスゾーンを彷彿とさせ、馥郁と香るロマン性が魅力だが、その水面下には人間の手の限界に挑むような超絶技巧が容赦なく繰り広げられている。しかし、鍵盤を完全に支配するマルセルのタッチは一貫してつややか。リストがヘンゼルトを評した「ビロードのよう」な音色はかくやと思わせる聴き応えだ。

アドルフ・フォン・ヘンゼルト:
12の性格的練習曲 Op.2,12のサロン用練習曲 Op.5, 練習曲 イ短調,牧童の別れの言葉(ゴンドラ) Op.13-2
田所光之マルセル(p)
〈録音:2024年9月〉
[ナクソス(D)NYCX10527]
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ロシア・ピアニズムの偉大なる“始祖”
ヘンゼルトについて詳しく知る人は少数だろう。主にサンクトペテルブルクで活躍したドイツ出身の作曲家は優れたピアニストとしても名を馳せ、その教授活動がロシアンピアニズムの源を築いたとされる。マルセルは2023年の来日リサイタルで、ヘンゼルトを出発点にロシア音楽の系譜を辿るという意欲的なプログラムを組んでいた。
「僕はラフマニノフが好きで、ピアニストとしての録音も指揮者としての録音もよく聴いています。ヘンゼルトを知ったのも、ラフマニノフの演奏による練習曲Op.2-6〈私が鳥なら、おまえのところに飛んでいくのに!〉を聴いたことがきっかけでした。あまりにもいい曲なので、練習曲全曲を弾きたいという気持ちになったのです。
ヘンゼルトはドイツから移住したサンクトペテルブルクで宮廷ピアニストとして活躍し、また教育分野にも尽力しました。チャイコフスキーはヘンゼルトが副院長を務めたサンクトペテルブルク音楽院で作曲を学び、その影響を大きく受けました。チャイコフスキーに師事したタネーエフの門下にはグラズノフ、そしてラフマニノフがいます。グラズノフの門下生であるグネーシンの弟子には指揮者のスヴェトラーノフ、また僕にとって現代最高のピアニストの一人であるプレトニョフは、グネーシンの孫弟子に当たります。このような偉大な系譜にもかかわらず、実はロシアにおいても、ヘンゼルトの業績に対する認知度が高いとは言えません」

田所光之マルセル (Marcel Tadokoro)
2021年モントリオール国際音楽コンクールのファイナリストを経て、2022年ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールでジョン・ジョルダーノ審査員長特別賞、サンタンデール国際ピアノコンクールでは第3位を受賞。 これまで読売日響、愛知室内オーケストラ、ウラル・フィル、モスクワ国立アカデミー響、フォートワース響、ワロニー王立室内管などと共演している。 日本人の父とフランス人の母の間に生まれ、多様な文化の中で育った幼少期は、田所の音楽観に多大な影響を与えた。名古屋市立菊里高等学校音楽科卒業後、パリ国立音楽院に満場一致の首席で入学。そしてJ-F.エッセール、F.ボファールの両氏に師事し、ドビュッシー国際コンクールでは第2位を受賞。ほかにも数多くのコンクールで受賞を果たしている。同音楽院を卒業してからは、エコール=ノルマル音楽院に奨学生として入学し、R.シェレシェフスカヤのもとでさらに自らの音楽に磨きをかけている。 ほかにもO.ガルドン、M.ラフォレ、A.ロマノフスキ、海老彰子、田島三保子、鈴木彩香、長野量雄、水村さおりの各氏にも師事。
https://marceltadokoro.com/
ドイツ・ロマン派の標題性に、スクリャービンを先取りする先進性
ヘンゼルトについて興味深い文献を残しているのが、帝政ロシアの国政参事官で、音楽評論家としても活躍したウィルヘルム・フォン・レンツ(1809〜1883)である。彼はリガに生まれたドイツ系の教養人で、リストとショパンにピアノのレッスンを受け、ベルリオーズ、そしてバルザックとも親しく交際した。リスト、ショパン、タウジヒ、ヘンゼルトを当代の最も優れたピアニストと称えるレンツの回想録(1872)は、19世紀の音楽シーンを知る上で重要な証言である。同時代のピアニスト=作曲家の練習曲と弾き比べ、どのような共通点や違いを感じたのだろうか。
「このディスクを録音したのは、ヘンゼルトの魅力を知っていただきたいという気持ちに尽きます。ショパンに似た部分があるという意見は理解できますが、僕にとってヘンゼルトは『ヘンゼルト』以外の何者でもなく、彼は誰とも違った方向を見ていると思うのです。
ショパンの練習曲には、昇華された完全な調和――いわばモーツァルトのような――があり、純粋にピアノのために、そしてピアニストの手に合うように書かれていますよね。ヘンゼルトの練習曲は、鳥、嵐、海などをテーマにした標題音楽のような要素が大きな特徴で、作品2にフランス語、作品5にはドイツ語のタイトルが付いています。技術的にもかなり攻めていて、10度音程が縦横無尽に使われています。リスト風の華々しいヴィルトゥオジティではなく、ある意味、地味な難しさなのですが、幅広いインターバルで拡張されたピアニズムにドイツ・ロマン派の詩心が融合して生まれる響きは、ヘンゼルト独特のものです。
また作品2-8〈おまえは私を魅惑し、操り、そうして水底へ引き込んで行く!〉などに見られる和音の連打は、スクリャービンの作風を先取りしているように感じます」
過酷な超絶技巧を、細部までクリアかつ表情豊かに
楽譜をめくっていくと、手が壊れそうな超絶技巧がこれでもかこれでもかと続く。しかしマルセルの演奏は細部までクリアで表情豊か。過酷さを微塵も滲ませず、「ライヴ性を意識した」という通り、各曲が一気呵成の推進力に満ちている。彼にとって曲集の最高傑作は作品5-12〈亡霊の夜行〉。「真骨頂」だという。
「僕は一つのテーマが膨らんでいく過程をコンパクトな枠内で聴かせる「練習曲」というジャンルが個人的に好きなんです。技術の追求だけでなく、例えばメシアンの〈音価と強度のモード〉(4つのリズムのエテュード)などに見られる作曲家の実験的な一面にも惹かれています。この夏の演奏会では、バロックから現代までさまざまな練習曲を取り上げます」
「練習曲」は「教えること」と結びついている。マルセルさんは練習曲集を通じてどのような「教師としてのヘンゼルト」を見ただろうか。
「詩的な題名から鑑みても、彼は絵画や文学などと音楽を結びつけ、音楽を描くための技術を教えるタイプだったのではと想像します。『ヴィルトゥオジティ』とは『イメージを自在に表現できること』だと僕は思っていますから。この時代の巨匠たちのように、僕はいくつもの顔を持つマルチカルチャーな音楽家に憧れます。自分自身、多様な考え方に触れる重要性をいつも感じています」
マルセルは、国際コンクールの優勝者、入賞者を多く輩出したレナ・シェレシェフスカヤ教授の元で研鑽を積んだ。綺羅星のような門下生たちとの交流は刺激に富むものだろうと想像したが、彼はコンクールの「罪」にも冷静な視線を注ぐ。
「レナに師事している間、コンクールの結果で世間の評価が180度変わるという現実を何度も目の当たりにしたことは、自分の人生観に大きな影響を及ぼしました。僕はどんな演奏にも長所と短所があると思っています。客観的な俯瞰力、自分自身でいること、この二つを忘れずにいたいです」
シェレシェフスカヤ教授が「マルセルは聴衆に媚びない真のプロ」と評していたのを思い出した。知られざる名作に敬意を払うマルセルさんが今温めている思いは、ロシアの指揮者スヴェトラーノフの作品の録音である。

田所光之マルセル ピアノ・リサイタル ~親愛なるエチュードたち~
〔スカルラッティ:ソナタL.429,J.S.バッハ:イタリア協奏曲,チェルニー:50番練習曲より 第1番,ショパン:別れの曲,シューマン:ベートーヴェンの主題による自由な変奏形式の練習曲,リスト:ラ・カンパネラ,ヘンゼルト:もしも私が鳥ならば,他〕
2025年6月22日(日) 14:00 宗次ホール
2025年6月25日(水) 11:00 京都コンサートホール アンサンブルHムラタ
2025年6月28日(土) 14:00 Hakuju Hall