
2026年4月、取材に応じてくれたニコラ・バルディルー
フランスのクラリネット奏者、ニコラ・バルディルーが進めるピリオド楽器によるモーツァルトのクラリネット作品全集プロジェクトの第2弾となるアルバムがリリースされた。管楽器4本とオーケストラのための《協奏交響曲》は当時のパリで使われた楽器を忠実に再現しての初録音で、最晩年の名作《クラリネット協奏曲》のバセット・クラリネットを使った演奏との注目のカップリングだ。今回は使用楽器のことを中心にお話をうかがった
訊き手・文=西村祐(フルート奏者・音楽評論)
通訳=藤本優子
取材協力=ノヴェレッテ、ナクソス・ジャパン
【新譜】

モーツァルト/ピリオド楽器によるクラリネット作品全集 Vol.2
〔協奏交響曲変ホ長調 K. 297b,クラリネット協奏曲イ長調 K. 622〕
ニコラ・バルディルー(cl,バセットcl)ガブリエル・ピドー(ob)ダヴィド・ゲリエ(hr)ダヴィド・ドゥソ(fg)ミヒャエル・アレクサンダー・ヴィレンズ指揮ケルン・アカデミー
〈録音:2025年2月〉
[アルファ(D)NYCX10588]
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《協奏交響曲》で使用したクラリネット
———モーツァルト・シリーズの第1弾(《グラン・パルティータ》を含むセレナーデ3曲の2枚組)も聴かせていただいて、とても感銘を受けたのですが、今回のアルバムでも古典クラリネットとバセット・クラリネット、2本の楽器の魅力が詰まっていて、素晴らしいと思いました。まず《協奏交響曲》で使われた楽器についてお聞きしたいのですが、どのようなものですか。
バルディルー(以下NB) キーが5つあり、モーツァルトが一番はじめに認めたものと正確に同じタイプのものです。特徴は半音階がきちんと吹けること。また、モダンのクラリネットの持つキャラクターとほぼ同じことを再現できることですね。それはまず音域、そしてニュアンス。低音域から最高音域に至るまで、モダンのクラリネットが表現できることは余すところなくこの楽器で吹くことができます。あとは最弱音から最強音まで大きなダイナミクスの変化をうまく実現できるというのも、この楽器の特徴です。

ニコラ・バルディルー Nicolas Baldeyrou
フランスを代表するクラリネット奏者。パリ国立高等音楽院で学び、ソリストや室内楽奏者として国際的に活躍する。モダン楽器に加え、古典クラリネットなどピリオド楽器にも取り組み、歴史的奏法への関心を示す。録音では協奏曲から室内楽まで幅広いレパートリーを残し、透明感ある音色と精緻な表現で高く評価されている。
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———あえてこの楽器を使うことの意味はどこにありますか。
NB まずモダンのクラリネットとは完全に別のものである、ということが大前提で、その上で響き、音色が違います。そして何よりも重要なのは作曲家が作品を書いたときに思い描いたイメージに近いことです。たとえ欠点があっても、素晴らしい作曲家というのは、それを理解し活かした上で作品を作っています。ですから当時のクラリネットが持っていた輝きだけでなく、音によって暗かったり変な音色になってしまうような弱点もすべて手の内に入れた上で、作品の表現に光を当てて見せるように書いているのです。それをモダンの楽器で吹いてしまうと、音に統一感が生まれてしまって、たとえうまく演奏できたとしてもバロック時代の不均等さを保った音楽を書いていたモーツァルトの望んだものとは違ってしまいます。不揃いであることが魅力である、ということを意識した上で、当時の楽器で演奏して聴いてもらおう、というわけです。
ピリオド楽器の演奏から得られたもの、そして共演者たち
———先日、モダン・クラリネットでモーツァルトの《クラリネット協奏曲》を演奏なさいましたね。その場合、ピリオドから得た情報や感覚をモダンに移し替えることはなさいますか。
NB もちろんです。まず楽器の材質が違います。古い楽器ですとツゲを使っていることが多いのですが、それは現代の黒檀やグラナディラに比べて柔らかい。ですから音色もソフトになります。モダン楽器に持ち替えたときに完全に同じ方法論で演奏することは無理ですが、古い楽器の体験を活かすことはできます。テンポもキーが5つのものとは当然違ってきます。今の楽器の方が吹きやすいので速くなりがちですが、それに流されずにより穏やかでゆっくりしたテンポになるというのが基本ですね。それから、モダン楽器を演奏するときには、モーツァルト時代のオーセンティックな音を自分の背景として常にイメージながら取り組んでいます。ヒストリカルな楽器を使うということは、実際に吹いてみることよりも、研究し、学ぶことが大切です。様式、アーティキュレーション、フレージングなどの細かなことは自分で確かめることで変わってくる。スタイルを学ぶことによって自分を再構築して、モダン楽器を吹くときにも自分の音を作っていくことが醍醐味ではないでしょうか。

取材直前の2026年4月4日~5日、
バルディルーは読売日本交響楽団(指揮:尾高忠明)の公演で、
モーツァルト《クラリネット協奏曲》のソリストを務めた。
ここではモダンのバセット・クラリネットを使用している
(©読売日本交響楽団 撮影=藤本崇)
———《協奏交響曲》はピリオド楽器での初録音ということですが、共演なさった演奏家はどのような方なのですか。
NB ソリストたちはみな古くからの友人です。もう25年近くの付き合いになるでしょうか。彼らと一緒に演奏するのはとても楽しく、友情に裏打ちされているのでスタイルやコンセプトについて率直に語り合ったりできます。彼らが使っているのもすべてクラシカルで、ホルンはナチュラルホルン、ファゴットも19世紀末のものです。ホルン奏者のゲリエは現在ベルリン・フィルのトランペット奏者(!)ですが、その前はフランス国立管で首席ホルン奏者を務めたあとフランス放送フィルのトランペットの首席になった人。ファゴットのドゥソはマルク・ミンコフスキやフランソワ=グザヴィエ・ロトのピリオド・オーケストラで仕事をしています。ヴィレンズとは彼が指揮者として関わるのは今回が初めてですが、彼はもともとコントラバス奏者で、エマニュエル・クリヴィヌのピリオド・オーケストラなどで弾いていたので知り合いではありました。オーケストラはヴィレンズが設立したピリオド演奏団体です。
《クラリネット協奏曲》で使用したバセット・クラリネット
———では《クラリネット協奏曲》で使っているバセット・クラリネットのことについて。ジャケット写真で持っておられる楽器ですね。
NB 今回使ったのはドイツの製作家による当時の楽器のコピーで、材質はツゲ。1820年代から30年代あたりまでは広く使われていましたが、徐々に黒檀の方に人気が移りました。といっても、19世紀末くらいまでは一般的に手に入れることはできていたようです。《協奏曲》でモーツァルトが想定していた楽器は、彼の友人だったシュタードラーがそれまで使われていたクラリネットに、低音を拡張するなどの改良を加えたもので、20世紀前半に楽器のイラストが発見されたことで、正確な形が明らかになったものです。

『モーツァルト/ピリオド楽器によるクラリネット作品全集 Vol.2』ジャケット。
バルディルーが「戦慄すべき挑戦」(後述)の表情で抱えているのが、
収録に使用したピリオドのバセット・クラリネット
———ベルの部分、写真で言うと一番上になっているところですが、ここはどうなっているのでしょうか。
NB 聴衆に向いた方ではなく、横向きに穴があいています。でもベルの部分は回すことができるので、必要に応じて向きを変えられます。室内楽で座って演奏するときには横向きにしますが、《協奏曲》のように立って演奏する場合はバランスが悪くて持ちにくいので、写真のようにベルが正面を向くようにします。さらに90度曲がっているところにもうひとつ穴が開いていて、そこを膝などで塞ぐと一番下のラの音が出るのです。《協奏曲》にもこの音が出てきます。
「戦慄すべき挑戦」
———クラシカルなクラリネットを演奏するのは現代の楽器に比べて難しいですか。
NB とても難しいです。まさに「戦慄すべき挑戦」とでも言いたくなるほどに。この形のまま生き残れなかったのは、演奏があまりにも難しかったからではないでしょうか。指遣いも現代の楽器に比べて何十倍も難しい。リードも違うので一言で言えば全く未知の楽器と思っていただいていいほど。モダンのクラリネット奏者に5キーの楽器を吹いてもらっても、はじめは全く音が出ません。せいぜい3つの音くらい。それも金切り声のような音色です。僕は何年も何年も学んで練習して、やっとここまで来たんです。25年くらいかかりました。
———それでもこの楽器で演奏したいのはなぜですか。
NB 当時の人たちが聴いた音楽がどんなものだったのか知りたいからです。スタイルや響きの真実は何か、というのは試してみることによってようやく見えてきます。モーツァルトがこれほど愛したクラリネットの絶対にアグレッシヴにならない美しさ、それに音の柔らかさやメランコリーがたくさん詰まっています。それらがすべて結びついて、これこそ彼が最後のエネルギーを費やしてまで書き上げた協奏曲だということがようやくわかってくるのです。だからあえて挑戦するのです。
———貴重なお話、ありがとうございました。
【関連音源】

モーツァルト/クラリネット作品全集Vol.1
〔セレナード第10番変ロ長調 K. 361《グラン・パルティータ》,同第11番変ホ長調 K. 375,同第12番ハ短調 K. 388《ナハトムジーク》〕
ニコラ・バルディルー,アレクサンドル・シャボ,フランク・アメ(cl)他
〈録音:2021年5月〉
[Alpha(D)ALPHA1040(2枚組,海外盤)]
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★本アルバムの「新譜月評」はこちら(批評:後藤洋さん)
