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インタビュー・文=青澤隆明(音楽評論)
通訳=井上裕佳子
取材協力=東京エムプラス、ジャパン・アーツ
オランダが生んだ名チェリスト、ピーター・ウィスペルウェイが6年ぶりに日本を訪れた。トッパンホールの「ニューイヤー・コンサート2025」のための来日で、前半にバッハの第2番、ブリテンの第1番の無伴奏組曲を弾き、後半は若い世代の日本人アーティストとショスタコーヴィチの五重奏曲op.57で共演した。
バッハとブリテンの無伴奏が秀逸で、持ち味である獰猛なほど激しい求心力に加えて、しなやかさと深みが増していた。強い意志を籠めるのは変わらないが、チェロの響きにもどこか力みの抜けた自在さが感じとれる。ウィスペルウェイ近年の成熟が、静かな奥行きをもって伝わってきた。1月20日に行なわれたコンサートの翌昼にインタビューを行なった。
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2025年1月20日に開催されたトッパンホール「ニューイヤー・コンサート2025」の模様。左の写真は前半の無伴奏で、右が後半のショスタコーヴィチ。左から山根一仁(vn)毛利文香(vn)北村朋幹(p)ウィスペルウェイ(vc)湯本亜美(va)@toppanhall(c)大窪道治
3度目のバッハではさらに大規模な挑戦をして
ピーター・ウィスペルウェイは、長らく精力的な録音活動を続けてきた。Channel Classicsでは、レーベル創設まもない1990年から2009年の20年にかけて、ガット弦を用いたバロックから同時代新作にいたるまで35作のレコーディングを放った。昨秋には同レーベルでの全録音がCDボックスとして再発売されたばかりである。それからOnyx Classicから数作をリリースしている。
そして2012年、ウィスペルウェイ50歳の記念リリースともなったバッハ無伴奏組曲の3度目の全曲録音を皮切りに、ベルギーのレーベルEvil Penguinとともに着実な歩みを重ねてきた。
「13、4年前に、Evil Penguinのステファン・マスとフェリシア・ボクスタールから、オーディオ録音とともに可能ならばビデオ制作に興味はあるかと言われた。大きなプロジェクトから取りかかりたいと私は思い、すぐにバッハの無伴奏組曲を考えました。ちょうど50歳になるところでしたし、バッハの組曲にさらに大規模な挑戦をしたいと。このプロジェクトで、ローレンス・ドレイフュスやジョン・バートとのインタビューも収録し、低いピッチで演奏に取り組むという野心的なスタートになりました。彼らとのコラボレーションは非常に愉しく、私の未来がEvil Penguinとともにあることが明白になったのです」
とウィスペルウェイは力強く言う。
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J.S.バッハ:無伴奏チェロ組曲(全曲)
ピーター・ウィスペルウェイ(バロックvc,ピッコロvc)
〈録音:2012年6月〉
[Evil Penguin(D)JEPRC0027(2枚組)]
――バッハの組曲を録音するたび、ピッチはどんどん低くなっていきますね。3度目の録音では、1710年製のバロック・チェロでA=392Hzのピッチを採られました。調弦が低くなると、響きがより武骨になり、逞しくなる。その方向での表現の自由が拡がったと感じました。
「まさしくそのとおりです。最初は冒険でしたよ。通常のバロックのピッチよりも低くとると、弦はロープのようになり、ほとんど振動が目に見えるようになる。テクスチュアがよりはっきりし、結果としてより荒削りにはなるけれど、私はそこが好きなのです。それこそ真実のものだから。バッハはフランス風の舞曲様式を模しましたが、当時のフランスの音楽はまだヴィオラ・ダ・ガンバが優勢で、この楽器の退廃的で、贅沢で、同時に荒削りな要素を宿していました。それで、上質の赤ワイン、あるいはスモーキーなウィスキーに近い味わいになるのです」
――そうして、弦が暴れやすくなると、1本ずつの弦の独立性や自由が高まったように感じられるのではないですか?
「おっしゃるとおりです。バッハの組曲を演奏することは多声を奏でることだから、各弦の独立性が高まれば、ある意味で4本の弦が4つのトラック、4つの声を識別し出すことになります。もちろん慣れるのには時間がかかりましたし、芸術的なチャレンジともなりましたが、困難に立ち向かうことで、それだけの成果が得られました。私は作曲家ではないので作品を再創造するだけですが、それでも創造にはつねに葛藤と困難を克服する要素があるものです。もちろん知識も必要です。4度目の録音はまた大きく違ったものになると思いますよ」
――これまでもこの先も、困難や挑戦は、あなたの音楽冒険を強く駆り立てるのでしょう?
「ええ。なにかしら意義深い演奏にしたいし、発見をしたいという願いもあります。目標に向かって強く目指すこともあれば、別の世界や意味にオープンになって、異なる結果や雰囲気がもたらされることもある。バランスが重要なのです。だから、私はいまなお一種の禅的な姿勢を探しているのだと思いますよ(笑)。禅的でありすぎるとそれはまた退屈で、やはり奏者から聴き手へなにかしらの火花が伝わる必要がある。そこには個人的な見解が伴いますから、完全に客観的な演奏家であるなどということを私は信じていません。つねにすべてを完全にコントロールしながらも、いつもオープンに物事に反応していく能力が必要なのです」
シューベルトとブラームスの二重奏曲全集について
――当初から意気投合されたとあって、Evil Penguinとのプロジェクトは野心的なものばかりですね。オーケストラとのロココ・アルバム、ヴァインベルクのチェロ協奏曲集、そして、シューベルトとブラームスの二重奏の全作品を長年の共演者パオロ・ジャコメッティと5枚のCDを次々とリリースされてきました。ヴァイオリン、クラリネット、フルートとピアノの二重奏も網羅していますが、他楽器のための作品をチェロで演奏するのは、早くからあなたが得意とされてきた取り組みとはいえ、これもまた大きな挑戦でしょう?
「Evil Penguinには非常に感謝しています。シューベルトとブラームスの全集リリースを実らせる機会を与えてくれたのですから。私にとっては真のドリーム・プロジェクトで、10代の頃から夢みていたことなのです。14歳くらいのときに家でピアノの前に座り、シューベルトの幻想曲の楽譜を開いて驚嘆したことを思い出します。ガット弦ではまずOnyxで録音して、それからこの大プロジェクトが発展していった。シューベルトの幻想曲はヴァイオリニストにとっても悪夢のような難曲なのですから、チェロで弾くことを想像してみてください! それから、ロンド、フルートの変奏曲もたいへんで、かなり練習しなくてはならなかったけれど、それも愉しいし、これらの難曲は私をより良いチェリストにしてくれたと思います。教えることもそうですね。上野通明は私のデュッセルドルフでの教え子ですが、他にも何人か優秀な生徒がいます。彼らを教えることもまた、私を練習に向かわせるし、新しいレパートリーも演奏させ、チェリストとして新たに成長させてくれるのです」
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ロココ~チャイコフスキー,C.P.E.バッハ,ストラヴィンスキー
[チャイコフスキー:ロココの主題による変奏曲,C.P.E.バッハ:チェロ協奏曲 イ長調 Wq172,ストラヴィンスキー(ウォルフォッシュ編):イタリア組曲
ピーター・ウィスペルウェイ(vc)ジョナサン・モートン指揮ヴィンタートゥール・ムジークコレギウム
〈録音:2013年1月〉
[Evil Penguin(D)EPRC0017(海外盤)]
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シューベルト&ブラームス/デュオ作品全集 Vol.1
〔シューベルト:ファンタジー ハ長調 D.934,レーガー:3つの無伴奏チェロ組曲第1番~アダージョ,ブラームス:クラリネット・ソナタ第2番,レーガー:3つの無伴奏チェロ組曲第2番~ラルゴ,シューベルト:ソナチネ第3番 D.408〕
ピーター・ウィスペルウェイ(vc)パオロ・ジャコメッティ(p)
〈録音:2014年10月,2015年2月〉
[Evil Penguin(D)EPRC0018(海外盤)]
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シューベルト&ブラームス/デュオ作品全集 Vol.2
〔シューベルト:〈しぼめる花〉の主題による序奏と変奏曲,ブラームス:チェロ・ソナタ第1番,シューベルト:ソナチネ イ短調 D.385〕
ピーター・ウィスペルウェイ(vc)パオロ・ジャコメッティ(p)
〈録音:2015年2月,8月〉
[Evil Penguin(D)EPRC0021(海外盤)]
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シューベルト&ブラームス/デュオ作品全集 Vol.3
〔ブラームス:ヴァイオリン・ソナタ第2番,シューベルト:ヴァイオリン・ソナタ イ長調 D.574,ブラームス:チェロ・ソナタ第2番〕
ピーター・ウィスペルウェイ(vc)パオロ・ジャコメッティ(p)
〈録音:2016年4月〉
[Evil Penguin(D)EPRC0022(海外盤)]
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シューベルト&ブラームス/デュオ作品全集 Vol.4
〔シューベルト:ロンド ロ短調 D.895,ブラームス:ヴァイオリン・ソナタ第1番,クラリネット・ソナタ第1番〕
ピーター・ウィスペルウェイ(vc)パオロ・ジャコメッティ(p)
〈録音:2017年2月〉
[Evil Penguin(D)EPRC0028(海外盤)]
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シューベルト&ブラームス/デュオ作品全集 Vol.5
〔ブラームス:ヴァイオリン・ソナタ第1番,同第3番,シューベルト:アルペジオーネ・ソナタ,ソナチネ ニ長調 D.384,ブラームス:F.A.E.ソナタ~スケルツォ〕
ピーター・ウィスペルウェイ(vc)パオロ・ジャコメッティ(p)
〈録音:2018年5月,11月〉
[Evil Penguin(D)EPRC0030(海外盤)]
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ヴァインベルク/チェロ協奏曲集
〔チェロ・コンチェルティーノ,チェロとオーケストラのための幻想曲,室内交響曲第4番〕
ピーター・ウィスペルウェイ(vc)ジャン=ミシェル・シャルリエ(cl)ラファエル・ファイユ指揮レ・メタモルフォーゼス
〈録音:2021年6月,7月〉
[Evil Penguin(D)EPRC0045(海外盤)]
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Pieter WISPELWEY, violoncello
オランダのハールレム生まれ。古楽器と現代楽器を同等に弾きこなし、J.S.バッハからシュニトケ、エリオット・カーターや、彼自身のために書かれた作品に至る広範なレパートリーは、様式美に寄せる深い洞察、独創的な解釈、驚異的な技巧の結晶であり、聴く者すべての心を捉えている。後進の指導にも努め、ロベルト・シューマン大学デュッセルドルフ及びアムステルダム音楽院にてチェロの教授を務めている。使用楽器は、ジョヴァンニ・バティスタ・グァダニーニによる1760年製のチェロと、バラク・ノーマンによる1710年製のバロック・チェロ。
16歳で夭逝した愛息の追悼アルバム2点
シューベルトの作品は先のデュオ全集だけでなく、『イン・メモリアム』と題された愛息の追悼アルバムにも選りぬかれた。声楽家としての将来を嘱望されていたドリアンは、2022年3月に16歳の若さで突然夭折してしまったのだという。『イン・メモリアムⅠ』がシューベルトの二重奏のコンピレーション、そして2022年12月に新録音でまとめられた『イン・メモリアムⅡ』は「スコルダトゥーラ・アルバム」で、コダーイの無伴奏ソナタ、バッハの組曲第5番、ブリテンの組曲第3番の〈パッサカリア〉を彼に捧げている。
「シューベルトはなにより私のお気に入りの作曲家です。生まれる前から母の胎内で、父がアマチュアの弦楽四重奏団で弾くのを聴いていましたし。10代になるとディートリヒ・フィッシャー=ディースカウのシューベルトのレコードを集めるようになり、20代のとき彼のコンセルトヘボウでのリサイタルを5度聴きました。いまも私のベストのコンサート体験です。しかし私はチェリストでしかなく、歌い手はただ私のアイドルでしかなかった。
それから、息子が声楽を始めて、ディースカウのシューベルトも、いまの時代だから自主的にSpotifyで聴き出しました。12歳のときにはシューベルトの歌曲をいくつか歌って、素晴らしい才能の持ち主だということが完全に明らかになった。シューベルトだけではなく、彼はシュトックハウゼンでも目覚ましい才能を発揮していたのですよ」
――『イン・メモリアムⅡ』に、シュトックハウゼン《光》のリハーサルでの彼の写真が掲載されていましたね。
「そうです。オランダ・フェスティバルでのオペラ・プロダクションで、彼はソリストのひとりを務めました。小さい頃から国立合唱団に入っていて、コンサートにも数多く出演していました。8歳の頃にはプッチーニの《ラ・ボエーム》で小さなソロも歌ったのです。国立オペラで、大歌手たちの隣で歌い、これが自分の人生を捧げることだと彼は心に決めた。シューベルトのディスクは彼を悼むのに意義深いものだと私は感じ、リリースしなくてはいけないと思いました。シューベルト自身が少年ではないにせよ31歳で亡くなって、信じがたいほどに悲劇的でした。それもあって、私の頭のなかでふたりが結びついたのです」。
――スコルダトゥーラをテーマとした最新録音も特別に深く心に迫るアルバムです。
「息子の葬儀で、バッハの無伴奏チェロ組曲第5番の〈サラバンド〉を演奏しました。私たちの住まいに近いアルクマールの素晴らしい教会に、何千もの人が集って、彼が在籍していた合唱団が歌い、世界的に名高いオルガンが演奏された。この曲を演奏したい、と私は葬儀で説明しました、私たちの経験していることを象徴しているからと。人生が私にしたこと、私の妻にしたことを……。耐えがたいほどに短い人生でしたが、彼はとても幸せだったと思います」
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イン・メモリアムⅠ
〔シューベルト:〈しぼめる花〉の主題による序奏と変奏曲,ソナタ イ長調 D.574,ロンド ロ短調 D.895,幻想曲 ハ長調 D.934〕
ピーター・ウィスペルウェイ(vc)パオロ・ジャコメッティ(p)
〈録音:2014年10月~2017年2月〉
[Evil Penguin(D)JEPRC0050]
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イン・メモリアムⅡ~スコルダトゥーラ・アルバム
〔コダーイ:無伴奏チェロ・ソナタ,J.S.バッハ:無伴奏チェロ組曲第5番,ブリテン:無伴奏チェロ組曲第3番〕
ピーター・ウィスペルウェイ(vc)
〈録音:2022年12月〉
[Evil Penguin(D)JEPRC0056]
衝撃作が続く今後の録音予定
――これからのレコーディング・プロジェクトについてもうかがいましょう。
「いくつかの衝撃作を準備していますよ! 筆頭に挙げられるのは、ウストヴォルスカヤのグランド・デュエット。最も荒々しく、最も非人間的で、そして、想像できる限りもっとも残酷で暴力的な音楽世界です。20分以上も酷薄な騒音が続き、それから安心や慰めがやってくるとは言えませんが、人間がなんたるものかを描き出しています。ウストヴォルスカヤは超表現主義的と言えるし、過激派とも言えます。これを私のディスコグラフィーに入れたいと思っています、おそらくカバレフスキーのソナタとともに。ウルストヴォルスカヤと比べたら、まるでブルジョワの音楽のように聴こえるでしょうけれど。
そして2026年は、ベンジャミン・ブリテンの記念年ですからね。じつは来週から3作の無伴奏組曲の録音を始めます。東京でも改めて3曲を演奏したいと思っています。トッパンホールでだいぶ前、2011年に全曲演奏しましたが、昨日は1曲弾けたのでよかった。
また、ヴァインベルクのソロ作品を、もっと弾いていくかもしれません。たくさん独奏曲がありますから、良い作品を集めるのはたやすいことです。
それから、ガット弦のチェロ演奏もしたい。ガット弦と古いピアノでは、2つのプロジェクトを考えています。ひとつは、グリーグのチェロ・ソナタとヴァイオリン・ソナタ。もうひとつは、シューベルトとブラームスの続篇のようなかたちにもなりますが、シューマンの二重奏曲全集を、ヴァイオリン・ソナタを含めて録音していきたいと考えています」
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3度目の録音となったバッハ《無伴奏チェロ組曲》のディスクを手にするウィスペルウェイ。今後の録音にも注目したい