柴田南雄の名連載『新・レコードつれづれぐさ』第6回の話題は、J.S.バッハの《無伴奏チェロ組曲》。さっそく実存的な思索にとまどいますが、これを誘発したのはヨーヨー・マの最初の録音(1982年)でした。また氏はビルスマ(1979年)にも関心を寄せていました。1983年当時の「新しいクラシック音楽」を象徴する、この2つの盤について論じられています。
※文中レコード番号・表記・事実関係などは連載当時のまま再録しています。

日々に過ぎゆく様、かねて思いつるに似ず
わたくしは、レコードをきき始めると、得てして回顧的な気分にとらわれる。なぜかと考えて見ると、第一にそもそもレコードをそれほど頻繁にきく習慣を持っていないから、今きき始めた曲を、かつてどんな名演奏できいたかな、と記憶を辿っていくと、たいてい20年前とか、あるいは40年以上も前、なんてことになる場合が多いのだ。もちろん、わざわざ記憶を辿るよりは、直感的に思い出す場合が多いし、また、なにもレコードをきいた記憶とは限らず、その曲のナマ演奏の記憶のこともあるが、とにかくそれに付随してしぜん、回顧的な気分に浸ることになる。まあ、そりゃ年のせいだよ、と言われれば別に否定もしないが。
第二に、わたくしのレコードへの対応の仕方が、ある時期やや集中的にきいた後、何年もの休止期間をおいてまたもやきき始めるというパターンの繰り返しであることも、このことと関連があると思う。レコードに対して、一時期の熱中があまり長続きしないことはSP時代からのわたくしの習癖であった。同じ曲が大して変わり映えしない演奏で二度、三度と新譜に出現すると、もうそれだけでレコードそのものが疎ましく思えて来る。だから、かつて現代音楽の新譜月評を7年間も書きつづけたり(『レコード芸術』誌、1969年~75年)、中世・ルネサンス音楽の新譜月評をまる8年も継続したなどは(『音楽現代』誌、1973年~80年)まったく異例のことに属する。幸いにも、そのどちらの分野も毎月の新譜の点数は、多くてもたったの3、4点だったし、時には、やれ嬉しや、1点もないわ、という月もあり、なによりも両分野とも名曲というべきものに乏しく、従って同じ曲の反復再出など滅多に起きなかったから、わたくしも飽きずに付き合えたのだ。
また、それを第三の理由と考えても良いと思うが、わたくしはレコードで音楽をきくこと自体が、人を回顧的な雰囲気に誘い込むものだと思う。自室で孤独にテープやレコードで音楽をきく、という行為そのものに、そうした付加価値みたいなものが生じるようにわたくしには思える。それが正の価値か、負の価値かは今は問わない。無意識にその要求が生じる、というべきかも知れない。つまり、ナマ演奏をきいている時は、よほど特別な曲ででもない限り、以前の演奏を思い出すことなどあり得ない。リハーサルであれ本番であれ、そこに演奏家たちが現にいてナマの音が鳴っている時には、そこに渦巻いているナマ音の生命を、同じ音の場で彼等と共有しつつ、その中に没入しているか、さもなければ、居眠りしているかのどちらかであって、他のことには頭が回らない。他の何事も連想したりはしない。もちろん、録音という、音だけが切り取られた一種の虚構の音楽演奏に対しても、特別に注意深い聴き方は可能だが、それとナマ演奏への集中度、集中の持続時間、あるいは集中の質は微妙に違っている。録音された音楽には、常に過去の同種の体験を回想し、それと比較しながらきく、という態度をとらせずには置かない契機と理由と誘惑がある。それは、生身の演奏者とリアル・タイムで音楽体験を共有していないための一種の補償作用みたいなものと言ってもよかろう。「ながら族」的なきき方や、ウォークマンの流行はその逆の効用だろう。ついでに付言するなら、一般的に言ってレコード批評には保守的な性格が付きまとっており、新しい演奏スタイルに対してしばしば不寛容だ。わたくし自身もその例外ではないかも知れないが、その原因もいま挙げた理由、つまり生身の演奏者の不在、ということと無関係ではないだろう。
ヨーヨー・マの演奏によるバッハの《無伴奏チェロ組曲》全集(CBS・ソニー 75AC1693~5)を聴き始めた途端に、以上のようなことをあれこれ思ったわけである。じつはこの、両親が台湾出身という馬友友青年の、朗々として闊達な、あくまで機能主義に徹した天衣無縫の演奏芸を、わたくしは1982年12月の来日時のリサイタルでつぶさに実見している。中国には二胡と称する胡弓があるが、なにしろ指板のない楽器なのであれを操るのは至難の業だと思うが、中国には旧世界にも新世界にも、その天才的な名手が少なくない。あのような二胡の名人芸に比べれば、指板を持ったチェロなどはずいぶん操り易い楽器じゃないか、と思うほどであるが、ともかくわたくしは、ヨーヨー・マのチェロ演奏をきいた後で、彼自身による二胡の演奏のイメージを、彼のチェロ演奏にダブらせて想像して見たのは事実である。

J.S.バッハ 無伴奏チェロ組曲(全曲)
ヨーヨー・マ(vc)
〈録音:1982年2月,4月,5月〉
[CBSソニー(D)75AC1693~5]LP

J.S.バッハ 無伴奏チェロ組曲(全曲)
ヨーヨー・マ(vc)
〈録音:1982年2月,4月,5月〉
[ソニークラシカル(D)SICC10432]SACDハイブリッド
※上記の現行盤
こちらの閲覧には有料会員へのご登録が必要となります。
有料会員登録がお済みの方は、Fujisan.co.jpにてお申込み頂いたアカウントにてログインをお願いします。