アニバーサリー作曲家レコ芸アーカイブ
特捜プロジェクト・アニバーサリー作曲家 2007年②

グリンカ,ミハイル・イヴァノヴィチ
Glinka,Mikhail lvanovich(1804~57)

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文・増田良介(ますだ・りょうすけ)

音楽評論家。ショスタコーヴィチをはじめとするロシア・ソ連音楽、マーラーなどの後期ロマン派音楽を中心に、『レコード芸術』『CDジャーナル』『音楽現代』誌、京都市交響楽団などの演奏会プログラム、各社ライナーノート等に執筆。著書に『究極のオーケストラ超名曲徹底解剖66』(共著、音楽之友社)など。

Mikhail lvanovich Glinka 1804~1857

「ロシア音楽の父」グリンカの名前は知っていても、その作品となると、《ルスランとリュドミーラ》序曲以外ほとんど知らないという人は、案外少なくないのではないだろうか。原因はいろいろ考えられるが、代表作の多くが、ロシア国外で演奏機会の少ない歌劇や歌曲(ロマンス)であることがまず大きいだろう。さらに言えば、グリンカ以降に現れたロシアの作曲家たちの作品があまりに強烈で、それらに比べるとグリンカの作品はどうしてもおとなしく聞こえてしまうということがあるかもしれない。しかし、バラキレフ、チャイコフスキー以来、立場の違いはあってもロシアの作曲家たちがこぞって祖として仰いだグリンカを知らずしてロシア音楽を語ることはできない。没後150年にあたるこの機会に、この意外なほど多彩な側面を持つ作曲家の生涯と作品を振り返ってみよう。

ベルリンでの
大きな収穫

ミハイール・イヴァーノヴィッチ・グリンカは、1804年6月1日(ロシア暦5月20日)、スモレンスク近郊の裕福な地主の家に生まれた。近くに住む叔父が農奴のオーケストラを所有していたこともあり(グリンカはこの楽団を指揮してハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンなどの交響曲を演奏したこともあるという)音楽的には恵まれた環境だったようだ。1818年に首都ペテルブルクヘ出て、夜想曲の創始者として有名なフィールドと、その弟子マイエルのもとで音楽を本格的に学ぶ。また、プーシキンとも親交を結ぶ。1824年には鉄道省に就職したが、28年には健康上の理由でこの仕事を辞し、30年、療養を兼ねて、かねてから念願であったイタリアヘ音楽の勉強に行くことになる。外国語が得意だったグリンカは旅行好きで、これ以降しばしば長期の旅行を行なうことになる。この旅行ではベッリーニやドニゼッティ、それにメンデルスゾーンらと知り合うなど、得るところは多かったが、最も重要なのは、1833年、ロシアヘの帰途に立ち寄ったベルリンで、音楽理論家ジークフリート・デーンに対位怯やフーガ、合唱和声などを、5か月問体系的に学んだことである。このとき学んだことは、グリンカをそれまでのロシアの作曲家たちと、そしてこれ以前のグリンカとも分ける重要な血肉となった。

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