調子っぱずれの歌が18世紀と現代を貫通する
俗を用いて、俗を離るる。俗を離れて俗を用いる。
――与謝蕪村
大学時代に中世・ルネサンスの音楽史を学びはじめたとき、「世俗音楽」という語がなんだか滑稽に感じられた。もちろん、これは「宗教音楽」に対する用語なわけだが、日本語で「世俗」というと、「俗」という字のせいか、ひどくくだらないことのように思えてしまう。英語のsecularという語はもう少しニュートラルというか、単に非宗教的・非教会的というニュアンスが強いのではないかと思うのだが、どうだろう。
教会音楽に対する語が世俗音楽である一方で、「芸術音楽」に対する語としては「大衆音楽」というものがある。しかし誰もが知るように、近代に入ると世俗音楽がとてつもなく聖なるものを背負ったり、あるいは大衆音楽が芸術的としか言えない高度な技術を用いたりすることが、さして珍しくなくなってくる。逆にいえば、もはやこうした二分法が有効でないからこそ、「世俗音楽」はもちろん、「大衆音楽」という語も見かけなくなってきたのだろう。
それでも、音楽史における「世俗音楽」という語は、滑稽だけれどもなんとなくカワイイというか、どこか捨てがたい妙味がある。そんなことを改めて思う機会が年末にあった。
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2025年12月26日。杉並公会堂で奇妙に魅力的な曲を聴いたのだ。山本裕之(1967~)の新作《わしらの新しいご領主に……そして税金を払う岩手の農民たち》。
——ちなみに、この連載では、なるべくCDをベースにして議論を進めることを心掛けている(YouTubeの場合もあるけれど)。ゆえに演奏会で出会った新作については、これまで語ってこなかったのだが、今回は例外として許してほしい。
バロック音楽、あるいはバッハに詳しい人であれば、先の曲のタイトルを見てピンときたはず。そう、これはいわゆる《農民カンタータ》(「わしらの新しいご領主に」BWV212)を、山本がそのまま、丸ごと、ぐにゃりと変形させた作品なのだ。
拙著『現代音楽史』(中公新書)では、近年の現代音楽界の大きな動向として、広義の引用・編曲・再作曲を施した作品が増えていることについて記した。つまり、何らかの古典を元ネタにして、それを現代風に作り替えてしまうという方法だ。実際、この傾向は、ますます加速の一途をたどっており、いまや世界の主要な作曲家のほとんどが、何らかのかたちでこうしたスタイルの作品を手掛けているような気がする。
そもそも厳密な意味でのオリジナルな創作(すなわち0から1を産みだすこと)がおそらく神にしか不可能であることを考えるならば、人間に出来ることといえば、先人の遺産をなんとか運用し、やりくりする中で「ちょっとだけ新しい」ものを作り出してゆくことしかない。その意味で引用・編曲・再作曲という行為は、決して二次的な創作ではなく、むしろ創作という行為のど真ん中に位置しているといってよいだろう。もっとも、それゆえに作曲家の過去へのアプローチ、そのタクティクスの巧緻がそのままダイレクトに結果につながってしまうわけで、作り手の知性が試される場ともいえる。

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