トーキョー・モデュレーション連載

【連載】トーキョー・モデュレーション 第14回/沼野雄司



ランゴー、ノアゴー、天気予報

 もしだれか他の作曲家がモーツァルトと競争しようとしたら、『ドン・ジョヴァンニ』をもう一度作曲するよりほかになすべきことはないであろう
キルケゴール『あれか、これか』

 音楽について調べたり、書いたり、喋ったりする仕事をしていると、いくつか奇妙に気になる国が出てくる。おそらく人によっても異なるだろう。ドイツやフランス、イタリアやイギリスといった国はいわば「必修科目」だから、気になろうがなるまいが誰もが必然として付き合わないといけないのだが、それ以外の選択科目で何を選ぶか。
 ある人はベルギー、ある人はポルトガルだったりするのだろう。なぜかリトアニアが気になって仕方ないという人もいるはず。わたしの場合は、ずっと心に留めている国が二つある。ルーマニアとデンマークだ。しかし、単に気になっているだけで、まだちゃんと「履修」はしていない。横目で眺めながら、けっこう長い間にわたって気になる、気になる、とつぶやいているだけである。
 これではいけないと、まずは一念発起、今年の秋にルーマニアを訪れてみた。その詳細はまた別の機会に詳らかにしようと思っているが、たった4日間ながらも(「集中講義」といったところか)、そしてブカレストのみの滞在ながらも大収穫があり、これはもう本格的に履修せねばならぬと決意を新たにしたのだった。ともかく彼の地におけるジョルジュ・エネスク、という存在の大きさを改めて知ったし(お札にもなっている)、チャウシェスクという邪悪な存在の巨大さと、それに毅然と抗った人々の熱気とのせめぎ合いが街のそこかしこに小さな、しかし確固とした痕跡を残していて、石畳の上を歩いているだけでクラクラするような刺激を受けたのだった。

エネスクの肖像画が描かれたルーマニアの5レイ札。だいたい200円弱といったところ

 しかし今回はもうひとつの気になる国、デンマークが主役である。ちなみに、わたしはまだこの国を訪れたことがない。フィンランドは何度も行っているし、ノルウェーの音楽祭(「ウルティマ」という現代音楽祭がある)に顔を出したりもしたのだが、デンマークはコペンハーゲンの空港にトランジットで数時間滞在したことがあるだけ。空港の外には一歩も出ていない。
 ご存じのように、デンマークは小国ながらも、古くから多彩な才能を輩出した国だ。
 例えば、子どもの頃に天文ファンだったわたしは、ティコ・ブラーエという名を聞いただけで、今でも心がはずむ。望遠鏡などなかった時代に、とてつもない精度で惑星の動きを計算してしまった天才。さらには新星という存在を指摘して、天界は変化してゆくのだと説いた革命児。彼によって天文学は確実に新しい段階に入った。ちょうど同時期のモンテヴェルディが音楽史に果たした役割にも近いかもしれない。
 アンデルセン童話に特に傾倒した覚えはないけれども、子どもから大人まで、もしかすると彼ほど作品が世界中で知られている作家はほかにいないのではなかろうか(子どもはシェイクスピアやドストエフスキーなど読まない)。ニルス・ボーアについてもさらりと語れればカッコいいのだが、残念ながらわたしには量子力学にかんする知識が皆無なので、あまり知ったかぶりをしない方がよいだろう。
 そしてキルケゴール。このひとは哲学者ではあるけれども、ニーチェと同じく音楽にかんしては、単に好きという範疇を越えた文章を残した人物だ。とりわけ『あれか、これか』の中で、熱に浮かされたような口調でモーツァルトの《ドン・ジョヴァンニ》を「すべての古典的な作品のなかで第1位」だと賞賛し、ドン・ジョヴァンニという悪党を軸にして、理性に対するエロス的存在の勝利を、しつこくも徹底的に祝福する様子は、もはや哲学というよりは音楽論、あるいは度を越したファンレターのような様相さえ呈している。
 さて、そろそろデンマークの作曲家へと話を移そう。バロック好きの人ならばブクステフーデ、ロマン派好きだったらニルス・ゲーゼをまずは思い起こすだろう(演奏家は先のラインナップに比べるとやや小粒かもしれないが、ヴァイオリンのニコライ・ズナイダー、指揮のトマス・ダウスゴーといったあたりが、レコ芸読者にとっては身近な存在だろうか)。
 そして近代に入れば、カール・ニールセンという圧倒的な存在が控えている。しかし、今日ここで最初に語りたいのは、ニールセンの陰で、ある意味では不遇をかこつことになった、不思議な、あまりにも不思議な作曲家のことである。

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