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1962年生まれ。81年より京都在住。90年から93年までパリ留学、99年より翌年までジュネーヴ在住。 現在は大学でフランス語を教えると共に、文学などの講義を担当する。 音楽誌などにディスク・レビューを中心としたクラシック音楽に関する文章やプログラムの曲目解説を寄稿する。著書に『ON BOOKS advance もっときわめる! 1曲1冊シリーズ ①ベートーヴェン:交響曲第9番』『同 ⑥フォーレ:《レクイエム》』(音楽之友社)がある。

2004年7月4日、わずか56歳でジャン=ルイ・フロレンツが亡くなった。それまでとても多作とは言い難く、ごくわずかの珠玉のような作品を、じっくりと時間かけて素材から抽出するかのように作り上げていた彼が、90年代の後半より急に創作のテンポを上げ、大規模な作品を矢継ぎ早に発表するようになり、期待と注目を集め始めてからの、突然であっけない死であった。存命であれば07年に60歳となっていたであろうこの特異なフランスの作曲家を、今回は採り上げる。
アフリカ文化・自然への強い関心
ジャン=ルイ・フロレンツは、1947年12月19日、パリ郊外のアニエールで生まれた。フランス中部のロワール県で過ごした幼少期より音楽に興味を持ち、リヨンの音楽院でピアノ、和声、音楽史などを学んだ後、パリに戻って国立パリ音楽院に入学。71~73年にオリヴィエ・メシアンや具体音音楽の実践で有名なピエール・シェフェールらに師事した。もっとも彼の幅広い好奇心の対象は音楽にとどまらず、並行して一般の大学にも通い、自然科学や哲学、アラブ文学なども学んでいる。ことにアラブ世界やアフリカの文化・自然への関心は強く、70年代だけでも10回以上も北アフリカやサハラ周辺国を訪れており、これが後には、彼の音楽観や作曲スタイルに大きな影曹を与えることになる。
70年代末から80年代初頭にかけて、最初の大作《マニフィカト》などによっていくつかの賞を獲得したフロレンツは、82年にナイロビのケニヤッタ大学に作曲とアフリ力洋楽の客員教授として招かれるなどアフリカでの活動範囲を広げ、民族音楽の研究や烏の声など自然界の音事象の採集に力を入れる。こうしたアフリカ研究は最終的に、コプト派の流れを汲むエチオピアのキリスト教文化に対象が収斂していき、80年代末には古代エチオピア語のゲエズ語を学習するなどして、その研究に努めた。その成果は、民俗音楽の世界的なコレクションを刊行していることで有名な仏オコラ・レーベルからリリースされた《エルサレムのエチオピア正教会》などのアルバムとして残されている。
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