マイケル・ティルソン・トーマス(以下、MTT)が2024年12月21日に80歳を迎え、それを祝す形で、彼の音楽作りの全貌を浮かび上がらせるBOXセットが相次いでリリースされた。これらを聴いてみると、MTTの透徹した感性、徹底した仕事ぶりに改めて感銘させられる。またオーケストラという伝統的な演奏形態に新鮮な息を吹き込む彼の音楽作りが、聴衆を常に感化し続けてきたことも分かる。
MTTの名声を決定的にした若き日のボストン響との録音
ドイツ・グラモフォン&アーゴ録音全集
マイケル・ティルソン・トーマス(指揮,p)ロンドンso,ボストンso,ニュー・ワールドso,ジャン=マルク・ルイサダ(p)ポール・ズコフスキー(vn)ミッシャ・マイスキー(vc)他
〈録音:1970~2002年〉
[DG(Eloquence)(S,D)4846836(14枚組:海外盤)]
『ドイツ・グラモフォン&アーゴ録音全集』ではボストン交響楽団(BSO)との初期録音が光る。MTTはBSOから艷やかな音色、洗練された解釈、のびやかで自然なフレージング、曲全体を見据えた着実な構造美を聴かせる。チャイコフスキー《冬の日の幻想》では、麗しい民衆の歌も表出させる。このほかファゴットの美音に導かれ、複雑なテクスチュアとリズムを端正に解きほぐす《春の祭典》(CD6)も、彼の名声を決定的にした。さらにドビュッシーの《映像》(CD3)には極上の音響世界が築かれ、ポール・ズーコフスキーと共演したウィリアム・シューマンのヴァイオリン協奏曲などアメリカ音楽(CD7)にはきびきびとした若きもある。楽器固有の音色とホールの豊かな音響をバランスよく収録する録音も、これらのディスクを聴く楽しみだ。
デジタル期の録音からは、ミッシャ・マイスキーとのショスタコーヴィチのチェロ協奏曲集(CD8)を挙げたい。静謐な佇まいの中に深い独白が語りかける第1番の緩徐楽章のほか、第2番では、主役のチェロに寄り添いあるいは対峙するロンドン交響楽団(LSO)との、研ぎ澄まされた対話が聴ける。長らく親交のあったバーンスタイン作品では、丁寧に奏でられる晩年作と、一発録り感のあるスリリングな《ウェスト・サイド・ストーリー》のシンフォニック・ダンスに驚く(LSO、CD10)。アーゴ録音では、ニュー・ワールド交響楽団(NWS)との録音として、ラテンの悲しさ・麗しさがにじみ出るアルバム『タンガーソ』(CD12)、優しい音塊が心地よく繰り返されるフェルドマン(CD14)を堪能したい。
ロシアからアメリカまで、MTTの膨大なレパートリーの全貌がここに
コンプリート・コロンビア/CBS/RCAレコーディングズ
マイケル・ティルソン・トーマス(指揮,p)ロンドンso,クリーヴランドo,ベルリン放送so,バッファローpo,コロンビア・ジャズ・バンド,ロサンゼルスpo,イギリス室内o,フィルハーモニアo,ロイヤル・コンセルトヘボウo,バイエルン放送so,ユタso,セント・ルークスo,シカゴso,サンフランシスコso,ニュー・ワールドo,ベルリンpo,他
〈録音:1973年~2005年〉
[Sony Classical(S,D)19802819932(80枚組:海外盤)]
80歳のMTT、自らの録音歴を振り返る~寄稿文全訳
ソニーの80枚ボックスは、グラモフォンのBSO録音以降アーゴ録音までのMTTのキャリアを振り返る内容で、「ロシア物」と近現代を核としつつも膨大なレパートリーを存分に味わえる。初期録音のうちクリーヴランド管との《カルミナ・ブラーナ》(CD3)はテンポの切り替えが速やかで鮮やか。大オーケストラとデリケートな声の芸術の双方に心を配っている。バッファロー・フィル等とのラッグルズ作品全集(CD8、9)は、例えば《太陽を踏む人》などはBSOとの録音よりも解釈に自信がみなぎり、不協和な音に刻まれた情念が力強く練られていく。
日本の評論家にMTTの実力を強く印象付けたベートーヴェンの交響曲全集(CD11、17、20、23、27、29、30、35) は、「テクスチャーの透明度」(MTTの言)を得るために室内オケと録音を行なっている。彼は《英雄》最終楽章の反行形フーガのように各パートを一人ずつで演奏させるなど初演時の演奏習慣を研究してスコアを大胆に変更したり、重要な動機を随所で丁寧に拾っている。《運命》最終楽章の冒頭を繰り返す際に楽器群のバランスを変えるなど細部にも凝っている。ドイツ語圏の音楽では、流麗なうねりときらびやかな管弦楽法を絶妙に統合したブラームス(シェーンベルク編曲)のピアノ四重奏曲第1番(CD28、バイエルン放送響)、シャープなクレッシェンドでダイナミックに進めつつ澄み切ったオーケストラが静かに深く聴き手を捉えるマーラーの交響曲第3番(CD36~37)、享楽的な混乱をありのままに受け止め一気に聴かせるマーラーの第7番(CD70~71)、自演の録音に聴かれる前のめりな拍節感を織り込んだ、心躍るリヒャルト・シュトラウスの交響詩(CD40、47)などが面白い(いずれもLSO)。
フランス物は、ドビュッシーに注目したい。交響詩《海》(CD21)ではドラマをスマートに聴かせつつ、水しぶきや大小の波の細やかな動態変化が繊細なアンサンブルから聴こえてくる。静寂との語り合いが美しいカンタータ《聖セバスチャンの殉教》(CD55) のやさしさにも深い余韻が残る。ロシア物では、千変万化のドラマを一筆書きで綴るチャイコフスキー《マンフレッド交響曲》(CD13)、冒頭楽章からじっくりと輝かしいクライマックスを築き上げるプロコフィエフの交響曲第5番(CD54、ここまですべてLSO)、「危険性のある仕事」(MTTの言)ながらグラミー賞を獲得したサンフランシスコ交響楽団(SFS)との《ロメオとジュリエット》抜粋[MTT選曲](CD61)、そしてストラヴィンスキーは究極の安定度を示す《火の鳥》や《春の祭典》(SFS、CD73)、作曲者直伝で学んだ自然なフレーズ感が柔軟な《詩篇交響曲》などの交響曲集 (LSOほか、CD59)などを楽しみたい。
アメリカ音楽で意外な聴き物はペーター・ホフマンとデボラ・サッソンのバーンスタイン集(CD25)で、理想的なミュージカル・サウンドに心が踊る(全曲でなくて残念)。ガーシュウィンでは、初演時の「ジャズ・バンド」とガーシュウィンのピアノ・ロールとを共演させた実験的《ラプソディ・イン・ブルー》(コロンビア・ジャズ・バンド、CD5)に興奮する。MTT自身のピアノによる同曲は『ニューワールド・ジャズ』(NWS、CD69)所収のものがスタイリッシュで、バーンスタインやジョン・アダムズやアンタイル、ミヨーやヒンデミットなど併録作品も、はち切れている。コープランド作品集では『ポピュリスト』(SFS、CD75) に収録された《アパラチアの春》において、人生の荒波を説く牧師のシーン不協和な「ミニマル・ミュージック」が全曲スコアから挿入されており、演奏もとても丁寧だ。
アイヴズはシカゴ交響楽団と録音した交響曲第4番(CD46)や《ホリデー・シンフォニー》、コンセプト・アルバムとして充実した『アメリカン・ジャーニー』(SFS、CD77)に聴きごたえがある。これらのディスクは、BSO時代の録音にあるような「シェーンベルクと同年生まれのモダニスト」ではなく、工業化する以前のコネチカットに生きたノスタルジックな「アメリカ音楽の父」としてのアイヴズという、米国内の受容の変化にも対応している。そのほかジョン・マクラフリンのギターとオーケストラのための協奏曲《地中海》(LSO、CD42)には、ロドリーゴの《アランフェス協奏曲》に続くギター協奏曲として、クロスオーバー作品としての可能性を聴く。
MTTのレパートリーは有名作曲家の知られざる名曲を発見させるものであり、誰もが知る名曲であってもスコアをつい確認したくなる新鮮な解釈で迫ってくる。そんな永遠の挑戦者であるMTTのディスクを1枚1枚紐解く喜びは、絶えることがないだろう。
ジャンルの垣根を軽々と越える作曲家MTTの世界
「グレイス」~マイケル・ティルソン・トーマスの音楽
マイケル・ティルソン・トーマス指揮サンフランシスコso,ニュー・ワールドso,他
〈録音:1999年~2023年〉
[Pentatone(D)PTC5187355(4枚組:海外盤)]
最後にペンタトーン・レーベルからリリースされた『グレイス』と題された4枚組に触れておきたい。札幌PMFでも演奏されたメロドラマ《アンネ・フランクの日記》は響きの変化に滲み出る主人公の危機に作曲家MTTの冴えがある。また会場を一瞬にしてナイトクラブやポップス・オーケストラのコンサートに転換する歌曲には、ジャンルの垣根を軽々と越えるMTTの柔軟さがある。レニーの70歳記念に寄せて書かれた《グレイス》は、レニーを通して綴られる「楽に寄す」、すなわち芸術賛歌でもあり、自然に涙腺が緩む。
谷口昭弘 (音楽学・音楽評論)