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レコ芸アーカイブ 編集部セレクション|レコード芸術が旅をした#1

志鳥栄八郎『北海道コンサートかけある記』

レコード芸術が旅をした

 このコーナーでは編集部が、資料室に眠る旧『レコード芸術』の複数の記事を、あるテーマをもとに集めて、ご紹介していきます。
 新テーマは「レコード芸術が旅をした」。東京をねじろとする『レコード芸術』ですが、誌面で展開されたまなざしは、東京近辺に完結するものでは決してありませんでした。
 第1弾として、1963年1月号に掲載された、志鳥栄八郎さんの『北海道コンサートかけある記』をお届けします。志鳥さんは、レコード会社と協力して、全国をまわり、録音芸術を解説する「コンサート」を繰り返し行っていました。
 食道楽の評論家による、歯に衣着せぬ旅日記と、豊富な写真のなかに、当時のひとびとの様子や、クラシック音楽受容の一端を垣間見れます。
 ※文中の表記・事実関係などはオリジナルのまま再録しています。
 ※登場するレコード店、飲食店等は、現在閉業している場合がございます。ご了承ください。
 ※記事中の写真は、当時随行した『レコード芸術』編集長、辻修氏の撮影によるものです。

1962年11月17日(土) 札幌

 千歳の飛行場に降りたとたんに、ブルンときた。雪の降る寸前の北海道というのは格別に寒い。気候は晩秋から酷寒へとかけ足なのだが、人間の肌がそれに追いつかないからだ。だから、このブルンは骨の髄までしみとおる。
 一行は4人、辻修編集長、フィリップス工業指導の杉村毅総務課長、日本ビクター第二営業部の伊藤信哉次長それに肩書に、“長”のつかないわたしである。わたしのほかは、みなさん北海道ははじめてである。
「北きあー道は寒いから、真冬の仕度でなきぁ、いけませんぜ」
 と注意した当人のわたしがレインコート、杉村、伊藤の両者が合オーバー、辻君ただひとりが冬オーバー、だから辻君だけが勝ち誇ったような顔をしている。
 いそがしいなかを、札幌営業所長の有田公三郎氏が迎えにきてくださった。人生の幸福をひとりじめにしたような、まさに大黒様の弟分のような好人物の所長である。でっかい自動車で、札幌までぶっとばす。
 必要以上にひろい道路の両側に、赤い色、青い色の、ごく小さな家が点在している。これが北海道のもっとも特徴のある風景だ。はやくも辻君が、カメラのシャッターをきりはじめる。
 グランド・ホテルで旅装をとく。7時に家を出て、飛行機のなかでスシを食ったものの、腹ペコである。北海道の牛肉は雪駄の裏のようにかたくてまずいけれど、一同、ステーキをぱくついてから座談会場へ。なにしろスケジュールがぎっしりとつまっているので、2時から4時まで時間厳守で座談会を行ったが、貴重な意見が続出して、たいへん意義のある会だった。
 コンサートは6時からなので、ホテルの理髪店にとびこんで、1ヶ月ぶりに鋏をいれてもらう。わたしは髪をいじられると急に眠くなるという妙なクセがある。だから理髪店のおやじ、だいぶ面くらったらしい。

 札幌では、いままでに7、8回話しをしたことがあるけれど、日生ビルのホールというのははじめてだ。塗料のかおりの新しい、実に清潔な、話しのしやすいホールで、500の席は定刻までにいっぱいになった。まず、伊藤・辻両君の挨拶で幕をあけ、前半がコンサート、後半がフィリップス製作の音楽映画で、前半はすこぶる快調だったが、後半は映写機が故障して大トチリ、設備のよいホールということで安心しきっていたのが大まちがいで、その責任はホール側にあるのだけれど、とにかく札幌のファンにはたいへん申しわけのないことをしてしまった。この紙上を借りて、改めてお詫びしておきたい。
 わたしは、札幌につくと、かならず南三条の「福ずし」に寄ることにしている。大谷冽子さんもそうである。ここはトロを除いて実にタネが新鮮で、しかも豊富である。とくに、生うに、数の子、いか、ほっき、ひらめ、いくらは絶品、それに酒は灘ときている。11時の夕食だからみんなががつがつ食ったが、それでも銀座や築地の一流どころにくらべると、値段は三割がた安い。

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