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1962年生まれ。81年より京都在住。90年から93年までパリ留学、99年より翌年までジュネーブ在住。 現在は大学でフランス語を教えると共に、文学などの講義を担当する。 音楽誌などにディスク・レビューを中心としたクラシック音楽に関する文章やプログラムの曲目解説を寄稿する。著書に『ON BOOKS advance もっときわめる! 1曲1冊シリーズ ①ベートーヴェン:交響曲第9番』『同 ⑥フォーレ:《レクイエム》』(以上音楽之友社)がある。
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George Enescu
1881~1955
ルーマニア出身の音楽家、ジョルジュ・エネスコ(エネスク)がパリで死去したのが1955年5月4日のこと。本年をもって没後50年となる。
エネスコは一般にどういうイメージを持たれ、どういう形で記憶されているのだろうか? 20世紀前半には世界でも指折りのヴァイオリン奏者として活躍した彼であるから、伝説の名手として名前を知ったという方は多いことだろう。音楽家としての楽壇への影響ということならば、何もヴァイオリンに限らない。エネスコと同じルーマニアの出身で、日本ではいまだに高い人気を誇る、夭折したピアニスト、ディヌ・リパッティの名付け親であり、そのキャリアの形成にあたって多大な貢献をしたことでも彼の名は知られている。
けれど、作曲家としてのエネスコはどうか? LP時代までであったならば、管弦楽小品集の定番として、あるいは手ごろな長さのフィルアップ用レバートリーとして、彼の《ルーマニア狂詩曲》第1番が繰り返し録音されたものだった。しかしCD時代を迎えて、この種の作品は次第に影が薄くなり、今や滅多に新録音にお目にかかれない曲目となってしまった。結果として、ヴァイオリン奏者としてあれほどに名を成したエネスコが作曲家でもあったという事実自体が、一般の人びとからは忘れ去られかけている、というのが偽らざる現状かもしれない。だが、エネスコが将来歴史に名を残すのであれば、それは疑いなく作曲家としてであって、その重要性には彼の他のどの音楽活動も及ばない。本稿では生涯の歩みを簡単に振り返りながら、作曲家エネスコに思いを馳せてみたい。
16歳のときに
パリで作曲家デビュー
ジョルジュ・エネスコは1881年8月19日、ルーマニアのリヴェニという小さな村に生まれた。父は100ヘクタールほどの農地を所有する農民で音楽に理解があり、母はギターを愛奏したという。しかし、エネスコが音楽の道に目覚めたのは家庭環境からだけではない。4歳になるかならないかの頃、ツィンバロンやヴァイオリンの合奏からなる小楽団の演奏を聴いて熱狂したのがきっかけで、父親にねだってヴァイオリンを買ってもらい、ベリオの教本のみを頼りに、ほぽ独学で弾き方を学ぶようになったのだ(一説には、ジプシー・ヴァイオリンの演奏家、ニコラス・チオルを師としたとも言われる)。
5歳の頃には既に頭角を現したエネスコは、父親の計らいでイアシの音楽院教授力ウデラに師事し、さらにはその勧めで88年から93年までウィーン楽友協会音楽院に留学、その後も93年よりパリ音楽院に入学して、主にヴァイオリンと作曲を学ぶことになる。ちなみにこのときの作曲の教授はフォーレとマスネであって、同じクラスを若き日のモーリス・ラヴェルも受講しており、ラヴェル学生時代の習作であるヴァイオリン・ソナタは、音楽院においてエネスコが初演したとされている。
ヴァイオリニストとしてのエネスコは、99年にプルミエ・プリを得て音楽院を修了した後、独奏家として、また室内楽奏者として活動を広げていくことになるが、実は作曲家としてはそれに先んじて、既に学生時代にデビューを飾っている。97年、弱冠16歳で自作のみによる演奏会をパリで開催しているのだ。これが当時指揮者として、また音楽のプロモーターとして高名だったエドゥアール・コロンヌの目に留まり、翌年作品第1番《ルーマニアの詩》がそのコロンヌによって初演される運ぴとなった。この初演の成功が、1903年の2つの《ルーマニア狂詩曲》へと連なり、作曲家としての地位は確立されていく。
西欧の枠組みから
はみでる非西欧性
作曲という行為が、ごく一部の恵まれた人々を除いて決して生活の方便とならないことは、昔も今も自明のことである。エネスコの場合も例外ではなく、彼の社会的な活動の大部分は演奏家として、また指揮者、ときにはピアニストとしてのものであった。エネスコ自身、自分のヴァイオリニストとしての活動については、「誰の注文でもなく、自分の魂のおもむくままに作曲をすることを保証してくれる手段」、「私は金目あてでヴァイオリンと結婚した」などと発言したこともある。
「キャリアと職業を混同してはいけない。私のキャリアはいくつかの作品に集約される。ヴィルチュオーゾとしての演奏会とは関係がない」とエネスコは語っている。そしてその作品の中にも、ポピュラリティを獲得するのに貢献した平易な作品と、手法やコンセプト上の大胆さから世に受け容れられるまでに時間を要した、あるいはいまだに評価を獲得していない作品との区別があるように思う。
先述した通り、エネスコといえば長い間2つの《ルーマニア狂詩曲》の作曲家であり、よくて弱冠16歳の時に完成した《ルーマニアの詩》が知られているぐらいだった。これらは抒情味の勝った旋律性と平易なドラマ性によって、かつては多くのファンを得、エネスコの名前を広く知らしめた。しかしこうした青年期の作品においては、非西欧圏の民俗性や音楽そのものに関する概念が、近代までの西洋音楽の枠組みのなかにどのように移植され得るか、何を伝え得るかについての、十分な内省があったとは言い難い。その後のエネスコは、この問題について自覚的となり、自らの解答を探求していくことになる。
自らの音楽の追及にあたって彼が選んだ道は、大きく分けて2つあるように思える。ひとつは、古典的な楽曲分析の論理、作曲理論を参照しながら、技法の洗練を極限にまで推し進めることで、その先にある新たな西洋音楽の地平へと到達しようとするものだ。初期の弦楽八重奏曲(1900年)をはじめ、3つの大規模な交響曲(1905年、14年、18年)などがこの系列に属し、その頂点はおそらく最晩年の54年に完成された12楽器のための室内交響曲だろう。
その一方で、自らの感性の内にある、特に祖国ルーマニアの民族性に基づく非西欧的な要素を、西洋音楽の論理に合うよう裁断し、枠に押し込めてしまうのでなしに、生のままのかたちで楽譜に放り込もうという大胆な美学も彼はあわせ持っていた。 もっともエネスコの場合、幼年時より受けたコスモポリタンな教育や、彼自身の豊かな素養によって、それらの多くの部分は十分西洋音楽的な美学のうちに回収できるものではあったのだけれど、その分どうにもはみ出さざるを得ない部分が音楽に顕在化したときのインパクトは強烈だ。こんにちエネスコの代表作と呼ぶにふさわしいヴァイオリン・ソナタ第3番(1926年)やその補遺ともいうべき《幼年期の印象》(40年)といった室内楽作品、さらには生涯の大作である歌劇《エディプス王》(31年)は、そうしたインパクトで聴く者の心をとらえて離さず、真の傑作の名にふさわしい。これらこそは、今後最も知られるべきエネスコの作品、彼のキャリアを代表する作品というべきだろう。
作品番号を信頼するなかれ
エネスコ自身が作品番号を付けた作品は30曲あまりに過ぎない。ところが、彼においては作品番号や同一編成曲の連番は常に混乱の原因となっている。そもそも番号を付けすに発表された曲が数多い上に、付け方そのものもかなり恣意的なのだ。例えば彼のチェロ・ソナタ2曲は作品26の1、2として連番を与えられているが、実際には第1番は1898年、第2番は1935年と作曲年代に大きく隔たりがある。また弦楽四重奏曲第1番が1920年に書かれた際には、作品番号22の1として出版され、続編のあることが予告されていたけれど、実際に第2番が完成して作品22の2として発表されたのは30年後の1951年のこととなってしまった。作品番号のないものは主に小品に多いものの、20分ほどの長さを持つ1916年のピアノ三重奏曲にも番号はない。これは出版前に楽譜が紛失してしまったためで、現在聴くことができるのは、楽譜が近年になって再発見されたからである。こうした混乱の最たるものはピアノ・ソナタだろう。エネスコのピアノ・ソナタは、 第1番と第3番のみで、第2番が存在せす、作品番号も作品24の1、3があって24の2がない。これは記憶力の極めてよかったエネスコが第2番は完成させながらも自分で演奏する分には(彼は優れたピアニストでもあり、盟友のジャック・ティボー相手にデュオを組んだほどだった)楽譜を必要とせす、結局記譜せすに終わってしまったためといわれている。
おすすめディスク

エネスコ:《ルーマニア狂詩曲》第1&2番,《ルーマニアの詩》,管弦楽組曲第1~3番,チェロと管弦楽ための協奏交響曲
ローレンス・フォスター指揮モンテカルロpo,フランコ・マッジオ=オルメゾフスキ(vc)ジャン=ポール・バルロン(ob)
〈録音:1983, 84年〉
[Erato(D)3984-24247-2(2枚組,海外盤)]
推薦盤3点は、エネスコを聴いたこともないという方むけの、全くの入門用というぺきもので敢えて固めてみた。当盤はコンヴェンショナルな選曲だけれど、その分親しみやすいアルバムにはなっている。 2つの《狂詩曲》はもちろん、作品1番となる大作《ルーマニアの詩》での民俗色の濃い旋律美や、後年のケクランを思わせる、管弦楽組曲第1番「前奏曲」での大胆なトゥッティのユニゾンなど、惜しみない抒情の発露が魅力的だ。

エネスコ:弦楽八重奏曲, ピアノ五重奏曲
ギドン・クレーメル(vn)クレメラータ・バルティカ
〈録音:2000年6月,01年11月〉
[Nonesuch(D)AMCY19028(海外盤)]
本文に述ぺた作曲家エネスコの2つの傾向ということでいけば古典的な作曲技法を高度に展開・洗練させて、錯綜とした音楽を創造するという傾向が支配的となった代表作が2編収録されている。作曲技法上の大胆さ・複雑さは常識的な楽曲分析を困難とするほどというけれど、そうした歯応えは火照りを宿した歌の飛翔によって堅く内に封じ込められている。 クレーメルと盟友たちの熱演も曲の魅力を十二分に引き出して見事といえる。

印象……
〔エネスコ:幼年期の印象,ヴァイオリン・ソナタ第2番,同第3番〕
ミハエラ・マルティン(vn)ロランド・ぺンティネン(p)
〈録音:2000年11,12月〉
[BIS(D)BIS CD1216(海外盤)]
作曲家エネスコの名前を不滅のものとするのは、ヴァイオリン・ソナタ第3番の存在であるに違いない。即興的で自在闊達にみえる独奏は、名演奏家として楽器を熟知した彼によって、非西洋音楽的要素が綿密に記譜された成果としてある。さらには時間の観念や音楽としての構築性も非西欧世界観にどっぶりと踏み込んで、強烈な個性を展開している。より詩的な雰囲気が前面に出た《幼年期の印象》も近年注目されているようで喜ばしい。
