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桐朋学園大学准教授。同大学附属子供のための音楽教室鎌倉・横浜教室および富士教室室長。専門はW.A.モーツァルトを中心とした18世紀後半の西洋音楽史。『読売新聞』にてCD評、演奏会評を担当する。旧『レコード芸術』には1994年から執筆。
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教師としての高い能力
カール・チェルニー(l791~1857)は、作品番号をもつ作品だけで861曲、未出版のものや編曲、記録にのみ残る消失曲などを含めれば、その倍にもなるかもしれぬほどに多作家であったらしい。「らしい」と付けたのは、その全貌が未だに明らかにされていないからである。そんななかで、ピアノ練習曲だけは飛び抜けて有名になっている。日本のビアノ学習者はまずはバイエルから始め、次にチェルニーの《30番練習曲》(作品849)という順番でレッスンを受けることが今でもまだ一般的だろう。日本に限らずとも彼の練習曲は世界中で使われており、とくに《30番》はピアノ楽譜の一大ベストセラーに相違ない。
いったい、「チェルニー=練習曲の作者」というイメージはいつ形成されたのだろうか。本人の存命中からである。彼自身はウィーン生まれだが、ピアノ教師であった父ヴェンツェルはポヘミア出身で、同郷のヴェンツェル・クルムホルツを介してベートーヴェンに弟子入りした。その期間は1801年から03年までであったが、その頃にはもうピアニストとして演奏活動を開始していた。おそらく作曲活動も並行して行なわれており、06年にはヴァイオリンとピアノのための《クルムホルツの主題による協奏的変奏曲作品1》(音盤有)を出版している。当時は作曲家兼ヴィルトゥオーゾの道を目指すつもりであったのかもしれない。しかし、15歳で初めて弟子を取ったことを皮切りに教育者の才能を徐々に自覚したのと反比例して、公開演奏への意欲は失なわれていったのだった。以来、ウィーンに留まって日中はレッスンをし、夜間は作曲という日々を36年まで続けた。大都市に住む優秀な教師ならば、大勢の弟子が集まったのも当然である(リスト、タールベルク、シュテファン・ヘラーのような才能を育てたことは有名)。教師としての高い能力は77集にも及ぶ練習曲(そして理論書)でも大いに発揮されており、生前から彼の名がその練習曲と結びつくのも致し方ない。
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