アニバーサリー作曲家レコ芸アーカイブ
特捜プロジェクト・アニバーサリー作曲家 2006年⑦

マヌエル・デ・ファリャ
(生誕130年・没後60年)[2006年7月号掲載]

≫特捜プロジェクト・アニバーサリー作曲家の他の記事はこちらから

文・濱田滋郎(はまだ・じろう)

音楽評論家、スペイン文化研究家。1935年東京生まれ。少年時代よりスペイン・中南米の文学、音楽に興味を抱いて研究、1960年ごろより翻訳、雑誌での執筆、レコード解説などの仕事に就く。おもな著書に『フラメンコの歴史』『エル・フォルクローレ』(以上晶文社)、『スペイン音楽のたのしみ』(音楽之友社)、『約束の地、アンダルシア』『南の音詩人たち』(アルテスパブリッシング)、『なんでかなの記』(言言句句)、訳書にカーノ著『フラメンコ・ギターの歴史』(パセオ)、スビラ著『スペイン音楽』(白水社文庫クセジュ)ほか。1990年より日本フラメンコ協会会長。1985年より清里スペイン音楽祭を総監督として責任開催。1984年第3回蘆原英了賞受賞。2021年3月没。

***

思いやりあふれるあたたかな人柄

Manuel de Falla 1876~1946

今は昔。ヨーロッバの大部分で貨幣がユーロに統一される前のある時期、スベインで最もよく使われた100ペセータの紙幣には「国宝的作曲家」マヌエル・デ・ファリャの肖像が印刷されていた。それが新札であったなら、音楽家と言うよりむしろ哲学者か宗教家のように見える細おもてを、うれしく眺められる。でも、ほとんどの場合、100ペセータは手垢によごれ、すり切れかけている。「お気の毒です、ドン・マヌエル。俗世間の欲得づくは何よりお嫌いだったあなたが……」と、なんか申し訳なく思うのが常だった。

ファリャの人柄を、端的にものがたる挿話のひとつを想起してみよう。ファリャの伝記はこんにちまで10数冊も書かれているが、そのうち早期の1冊を書いた人に、スペインの作曲家かつ文人ハイメ・パイッサ(1880~1969)がいる。パイッサはファリャの在世中に敬愛する先輩の評伝をまとめ、それを彼目身に校閲してもらった。通読したのち、ファリャは遠慮がちに、しかしきっぱりと、何か所かの叙述を書き換えあるいは削除してほしいと著者に告げた。そのひとつが、1919年7月、ロンドンでの《三角帽子》初演時のエピソードである。これは輝かしい大成功だったのだが、まことに悲しくも、楽屋にはファリャに宛てて「スグカエレ。ハハキトク」の電報が届いていた。もちろんファリャは、喝采に応えるのもそこそこに劇場を出る。いきさつを知った出演者たち、ロシア・バレエ団のメンバーも、着替えるいとまもなく、肩もあらわな舞台姿のまま、街路に出て、ロぐちに同情と励ましを叫びながら栄光の作曲家を見送った。

この叙述は伝記の中でも感動的なシーンのひとつになるはずだったが、ファリャは言うのである——―「ハイメ君。私はたしかに、こんなふうにお話しした。でも、考えてみると、どんな理由があろうと、女性が街通りに肩もあらわな姿で出たというのは良風に反するよ。記録にとどめてしまって、彼女たちに迷惑がかかったらいけない。どうか、このくだりは削除してくれたまえ」と。

このコンテンツの続きは、有料会員限定です。
※メルマガ登録のみの方も、ご閲覧には有料会員登録が必要です。

【有料会員登録して続きを読む】こちらよりお申込みください。
【ログインして続きを読む】下記よりログインをお願いいたします。

0
タイトルとURLをコピーしました