プレルーディウム連載

【連載】プレルーディウム 第15回/舩木篤也

音楽評論家・舩木篤也氏の連載「プレルーディウム」。
プレルーディウム(Präludium)は、ドイツ語で「前奏曲」の意味。毎回あるディスク(音源)を巡って、ときに音楽の枠を超えて自由に思索する、毎月1日更新の注目連載です。
第15回はシャニ・ディリュカのソロ・アルバム『ルネサンス』が登場します。そして本稿は11月25日、三島由紀夫の命日に書かれました。ディリュカと三島、それぞれの「嘆きの歌」についての論考です。

ディスク情報

ルネサンス
〔バード、フレスコバルディ、パーセル,D. スカルラッティG.F.ヘンデル、J.S.バッハ他の作品より〕

シャニ・ディリュカ(p)
〈録音:2024年7月〉
[ワーナー・クラシックス(D)2173251429]

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嘆きの歌

 この稿を書いているいま、11月25日は、今年生きていれば100歳になっていたはずの三島由紀夫の命日である。1970年のこの日、自衛隊市ヶ谷駐屯地で檄を飛ばし、割腹自裁した。45歳だった。
 あの年には「人類の進歩と調和」なるテーマのもと大阪万博が開かれ、3歳になっていた私も叔父に連れられて行った記憶があるが、三島事件のことは、まるで憶えていない。仮に憶えていたところで、その時に「何かを考えた」というようなことは、言えるはずもない。
 では、あれから55年が経ち、あの死について、お前に確とした意見があるかと問われれば、口ごもるしかない。何を言っても的はずれになりそうだから。
 ただ、確かなのは、死ぬ数ヶ月前に彼の下した「これからの日本」をめぐる予言が、みごとに的中したことだ。「無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、拔目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう」という、あの予言が(「果たし得ていない約束——私の中の二十五年」より)。
 そして彼のこの絶望的な認識が、あの死に——ただのハラキリ願望を越えて——本当に繋がっていったとすれば、大がかりな茶番に見える自裁劇も、無視はできない。私には、彼が「檄」に記したように自衛隊を「真の国軍」にすれば麗しい日本ができるとは思えないが、そんな私でも、このありうべき繋がりゆえに、11月25日を思うと厳粛な気持ちになる。今年催された2度目の大阪万博のキャッチフレーズ、「いのち輝く未来社会のデザイン」を三島が聞いたら、何と言ったであろう?

 またまたそんな憂い顔をして——と、どこからともなく茶化されそうだ。けれども、目下個人的に、ニュートラルな経済大国の抜け目なさと闘っている事情があって、憂い顔にも、それなりの訳があるのである。目的はカネ儲け。誠実? 美? なんですかそれ?という相手と闘っている。先方はたぶん、三島の本など読んだことはなかろう。
 いや、ここはそんな卑近な話をする場ではない。そう、音楽の話をしたいのだった。こんなときに心やわらぐ音盤と出会った、という話である。私のように、なにか塞ぎの虫に付きまとわれている人があれば、手に取ってみてはいかが?

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