特捜プロジェクト・アニバーサリー作曲家 2005年④

ボッケリーニ,ルイージ
Boccherini,Luigi(1743~1805)

アニバーサリー作曲家レコ芸アーカイブ
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文・安田和信(やすだ・かずのぶ)

桐朋学園大学准教授。同大学附属子供のための音楽教室鎌倉・横浜教室および富士教室室長。専門はW.A.モーツァルトを中心とした18世紀後半の西洋音楽史。『読売新聞』にてCD評、演奏会評を担当する。旧『レコード芸術』誌には1994年から執筆。

ルイージ・ボッケリーニは1805年5月28日にマドリードで没しているから、今年で没後200年になる。18世紀後半を代表する大作曲家なので、記念の年だけ盛り上げても意味がない。筆者はボッケリーニの音楽を今まで聴いてきて、駄作に当たった記憶がない。

と、個人的な強がりを言ったところで、世間が彼を大作曲家として遇しているようすも見られない。ここでは、自分と世間の間にある認識のズレについて思うことを書き、さらには、歴史の堆積のなかからボッケリーニを別のかたちで救い出す作戦を考えてみたい。

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「ハイドン夫人」と
呼ばれて

Luigi Boccherini
1743~1805

これは有名な話だけれど、ボッケリーニは、同じくルッカ出身のヴァイオリン奏者ジュゼッぺ・プッポ(1749~1827)から「ハイドン夫人」と評されたらしい。この発言の意図はわからないが、いろいろな意味で興味深い評言ではないか。

まず、18世紀末に音楽の「世界共通語」を生み出したとまで言われたヨーゼフ・ハイドンを持ち出したこと。これによって、ひとつの可能性として、ハイドンに比肩しうる評価がボッケリーニにも与えられていたかも知れぬことがここから窺われる。また、「夫人」という言葉は、ボッケリーニの音楽がもつ繊細さを評したものであろうか。おそらく、プッポはやや年長で同郷のチェロ奏者への敬意を込めて、このキャッチフレーズを考えたに違いない(自分がタルティーニの弟子であると平気で嘘をついた男ではあるが) 。

「ハイドン夫人」、
貶められる

だが、「ハイドン夫人」はその後の歴史の堆積によって、発言者の思いも寄らないことを含意してしまったかも知れぬ。つまり、平たく言えば、「白人中流男性中心主義」ならぬ「ドイツ人中流男性中心主義」から見た意味づけである。

言うまでもなく、19世紀以降にとって、18世紀後半の音楽史はドイツ語圏、さらにはハイドン、モーツァルト中心の時代として描かれるようになった。そのような描き方がもつ拘束力は、今でも驚くほど我々の頭と心を強力に支配している。

筆者も本誌の「海外盤試聴記」などで、18世紀後半に活動した上記の2人以外の音楽を紹介する際に、「モーツァルト風」とか「ハイドンに近い」などという言い回しを使う時、自分の語彙の貧困とともに、一般に流布した音楽史が振るう暴力を感じて慄然としてしまうことがある。

スペインを本拠に国際的な名声を博したこのイタリア人に対しても然り。たとえば、彼の「ソナタ形式」には「展開」がないと評する時、その評言の背後にはカノン化した「ウィーン古典派」の巨大な影がつきまとっているだろう。

さらに始末に負えないのが「夫人」。女性を排除してきたこれまでの音楽史という装置にとって、この言葉は格好の餌となったのではないか。「女は一流の作曲家ではない」という、みっともない偏見を、「夫人」と形容されたボッケリーニヘの蔑視に接続することは容易である。

男性でない性への形容として伝統的に使われてきた「夫人」をネタに、ボッケリーニをおとしめる構図。これは、音楽の「父」たるバッハに比べ、「母」たるヘンデルの音楽をちょっとだけ低く扱うという構図にも似ているような気がする。

中心をかき回す

では、この構図を相手の土俵の上で見出してみる。たとえば、ボッケリーニの交響曲ハ短調G.519(1788年)を思い浮かべてみよう。この作品では、第1楽章の主要主題は、緩徐楽章とメヌエット楽章に似ている。譜面づら上のみならず、聴いた時の印象でも「似ている」と感じられる。つまり、一種の循環形式を採用した交響曲とみなしても問違いではない。

ところが、「ドイツ人中流男性中心主義」の性格を色濃く帯びた、これまでの「標準的」音楽史では、循環形式の成立に関してもボッケリーニは蚊帳の外に置かれてきた。ボッケリーニ作品には循環形式とみなしうる多楽章作品が他にも少なからず存在するにもかかわらず。しかし、循環形式の歴史的布置にまつわる物語では、運命動機を一貫的に使用する第5番、先行楽章の回想をフィナーレで行なう第9番などを筆頭に、まずもってベートーヴェンが不動の中心を占めてしまうのだった。

だが、ボッケリーニの例をもち出し、それが世問にも認められれば(ボッケリーニからベートーヴェンヘという因果連鎖は想定不能ではあるが)、ベートーヴェンの布置にも微妙に影響せざるを得ない。交響曲における循環形式にまつわるこの物語において、ボッケリーニ作品がその存在を強く主張するようになっても、守旧派の精神安定剤として「中心=ベートーヴェン」というレッテルは、取りあえずは機能するだろうが、根源的には中心不在であることへの自覚を高めることにはなる。

ボッケリーニ救出作戦?

でも、「循蝶形式」という、いわばファロス的基準で、ベートーヴェンと勝ち負けを競っても空しい。いみじくもプッポが冠した「夫人」という言葉。ここにこそ、ボッケリーニを味わう秘訣を語るための作戦があるように思われる。ボッケリーニが旧来の価値観からみて「夫人」の特性をもつことが本当だとしても、「『展開部』が弱い」点が夫人=女に特徴的な事柄だと言われても、それは万人にとって「劣った音楽」であることの証左にはならない。筆者の知る範囲でも、「『展開部』に強い」ベートーヴェンの音楽に馴染めない人間が、それこそ老若男女を問わず存在する。その種の人たちは、互いに関連の薄い旋律やテクスチュアが自在に入れ替わるボッケリーニの音楽に自然に入っていけるに違いない。

必要以上に強調することはないかも知れぬが、ハイドン・モーツァルト・ベートーヴェンの文化とボッケリーニのそれとの差異を相対化し、尊重することはいまや常識であって欲しい。そんな常識がまかり通れば、何もかもが平板化してしまうという批判は、反省のできない「ドイツ人中流男性中心主義」のなせる業である。

我々にとって頼もしいことに、ここ十数年の間にボッケリーニの音楽は次々と録音され、以前に比べれば容易くアクセスできる曲目の数が増大している。そういうものを聴いていたら時間がもったいないとか、聴いている人の感受性を疑うなどと言う人がいたら、嘲笑を投げかけよう。ボッケリーニを聴くことはべつに、おたく的好事家の趣味ではなく、「ドイツ人中流男性中心主義」をふっとばすための大いなる作戦の一部なのだ。

TOPICS

ボッケリーニ家は芸術家系?

まず、ボッケリーニの父レオポルドはチェロとコントラバスを演奏する楽師だった。彼は父親の影響でチェロを始めたのである。ひとつ年上の兄ジョヴァン・ガストーネは詩人や舞踏家として才能を発揮した。この兄はウィーンに活動の場を見いだし、台本作家として有名になっている。ハイドンのオラトリオ《トビアの帰還》(1775年)もジョヴァン・ガストーネの作で、「ハイドン夫人」は意外なところでハイドンとつながっていたのであった。姉のマリーア・エステルも舞踏家で、やはりウィーンで人気を得ている。彼女は同地で同業者のアノラート・ヴィガノと結婚した。2人の間には、1769年にサルヴァトーレという名の息子が生まれた。このヴィガノこそ、後に希代のダンサー兼振付師として名を馳せ、ベートーヴェンとは《プロメテウスの創造物》を共同制作する間柄となる。ボッケリーニ自身が1770年代末から90年代半ばにかけて、ベルリンのフリードリヒ・ヴィルヘルム2世の宮廷にいたことは現在では否定されているので、1796年にベートーヴェンとべルリンで会った可能性はまったくのゼロになってしまったが、甥っ子のサルヴァトーレはベートーヴェンとつながっていたのであった。直接的な交友関係はないとしても、ボッケリーニの血縁関係の境界線上に、ウィーン古典派の2人の「大作曲家」が見え隠れしていたという事実は興味深い(モーツァルトとの関係は微妙なのでここでは省略)。

おすすめディスク

ボッケリーニ/交響曲集
〔ハ短調G.519,変ホ長調G.513,イ長調G.508,二長調G.520〕
べルリン古楽アカデミー
〈録音:1996年〉
[Harmonia Mundi France(D)HMA1951597(海外盤)]

本文中で触れたハ短調交響曲(1788年)を収録するだけでなく、他の選曲も良い。この作品は昔から注目度の高い交響曲だったためか、録音も少なくないが、本盤はテンションの高い、情熱的な演奏なので、筆者はよく聴く。本文中で触れたこと以外にも聴くに価する作品であろう。ボッケリーニの交響曲全体を把握したい人ならば、ヨハネス・ゴリツキ指揮による体系的録音盤[cpo]が貴重な企画を捉供してくれる。

ボッケリーニ/チェロ・ソナタ集第2巻
〔変ロ長調G.565,変ホ長調G.11,へ長調G.579,変ホ長調G.566,ハ長調G.17〕
ガエターノ・ナジッロ(vc)マーラ・ガラッシ(hp)ミケーレ・タッツァーリ(vc)
〈録音:2000年8月〉
[Symphonia(D)SY00178(海外盤)]

ナジッロはもう1枚ソナタ集(1980年代の新発見曲も収録)を含め、コンティヌオでチェロ、チェンバロ、ハープを使い分けるのみならず、作曲者自身がやった史実を踏まえてヴァイオリンまで使っている。本盤では、有名なチェロ協奏曲変ロ長調と同じ音楽による両端楽章をもつG.565を収録。ボッケリーニでは同一音楽の再使用がよくみられ、それによる驚きを伴った楽しみもまた格別である。

ボッケリーニ/アカデミー用アリア集第1巻
〔第2番《あなたのそばで死ねぬなら》,第8番《神々よ、もし》,第13番《その哀れな魂を》,他全7曲〕
クリスティーナ・ミアテッロ(S)ラルテ・デラルコ,アンサンブル・バロッコ・パドヴァーノ・サン・スーシ
〈録音:1995年4月〉
[Dynamic(D)CDS123(海外盤)]

ボッケリーニにも、器楽に比べれば圧倒的に数少ないながら声楽曲がある。《スターバト・マーテル》を挙げるのが常套だろうが、ここではメタスタージョの詩による15曲のアカデミー(演奏会)用アリアの盤を。「展開に弱い」という悪口も、アリアにまで投げつける御仁はいないだろう。感情表現の的確さに裏付けられた旋律美はボッケリーニの素晴らしさを味わうための入門編として最適かも知れぬ。

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