野蛮な大国が反旗を翻している
炸薬弾が銃口から飛び出す前に、大統領は、ついと頭を前に傾けたのだ。ジャッカルが呆然としてながめていると、大統領は、前にいる退役軍人の両頬に、おごそかに接吻した。
フレデリック・フォーサイス『ジャッカルの日』
2023年7月。
「レコード芸術」誌が休刊を迎えた。最初にニュースを聞いた時には、レコ芸がなくなったら日本のクラシック界はどうなるのか、と不安でいっぱいだったのが、その一方で、これでもう毎月の連載に苦しまなくてもよいのだ、という不謹慎な気持ちがほんの少しだけ頭の片隅をよぎったことを告白しなければならない。
実際、あれから1年と少しの間、わたしは酒とバラの日々を謳歌しながら、愛車の日産ノートで東京を疾駆していた。締め切りさえなければ、人生は輝きと悦びに満ちている。
『トーキョー・シンコペーション 音楽表現の現在』
沼野雄司・著 [音楽之友社]
1年7カ月にわたる『レコード芸術』誌の連載を全面的に書き直し一冊にまとめたもの。表紙で東京の空を飛んでいるのは、もちろん日産ノートである。
ところがある日のこと。レコ芸ウェブ版の編集長を名乗るキヨモト氏から、突然にメールが送られてきた。また連載をやれ、とある。うう、と喉の奥で低い声が出た。酒とバラ・・・・・・。しかしウェブ版であっても、この雑誌には恩義がある。数秒迷ったのち、えいやとばかりに、再び締め切り奴隷を志願するに至ったのだった。
やるとなれば、まずはタイトルだ。いま風に「シン」を付けようかとも思ったが、「シン・トーキョー・シンコペーション」ではどうも語呂が冴えない。ならばモデュレーション、すなわち「転調」ではどうか。前のシンコペーションがリズムやアクセントのズレだとすれば、モデュレーションは音調のズレに他ならない。
・・・・・・お察しのとおり、わたしは酒とバラに次いで、ズレが好きなのだ。
◆
2024年7月。
ペンシルバニア州で選挙集会を行なっていたドナルド・トランプが狙撃された。犯人はAR-15型ライフルを全部で8発撃ち、そのうち1発が氏の右耳上部を貫通した。
運がよかったのは、まさに狙撃の瞬間、不法移民のデータを映したスクリーンを示すために彼がほんの少しだけ頭を右に動かしたことである。いくつかのシミュレーションによれば、もしも顔を動かさなかったら、銃弾は頭蓋骨に飛び込んでいたという。ほんの1センチ程度の「ズレ」が彼の命を救ったわけだ。
ニュースを聞いた時、少なからぬ人が『ジャッカルの日』を思い出したのではなかろうか。フランス大統領ド・ゴールをつけ狙う暗殺者ジャッカルをめぐる冒険小説だが(映画もヒットした)、物語のラスト、大統領が退役軍人に接吻するためにほんの少し頭を動かしたおかげで、ジャッカルの銃弾は外れてしまう。
小説のなかのド・ゴールは、自分が狙撃されたことさえ気づいていないのだが、トランプは、いったんSPたちに抑え込まれたあとにムックリ起きあがり、自らこぶしを突き上げてテロに屈しないことをアピールした。転んでもただでは起きない、とはまさにこのことだ。
この時に撮られた写真がある。
青空に星条旗がはためく前で、サングラスをかけたSPに囲まれたトランプが拳をふりあげている、あまりに出来過ぎた構図の写真だ。撮ったのはAP通信のエバン・ヴッチ。自らも銃弾を浴びる可能性があるなか、絶妙の構図をとらえてシャッターを押したわけだから、誰もがさすが、と感心したのだった。
が、それもそのはず、彼は2021年に黒人のジョージ・フロイド死亡事件のデモを撮影してその年のピューリッツァー賞報道写真部門を受賞した、著名な報道カメラマンだという。いわば、ジャッカルのような凄腕スナイパーだったわけだ。
現時点では不明だが、この写真は、次のピューリッツァー賞を受賞するのではないかと噂されている。
◆
「ピューリッツァー賞」とはなにか。
新聞事業で財を築いたジョゼフ・ピューリッツァーの遺言によって、1917年に創設された賞である。もともとはジャーナリズム、文学、演劇、教育の部門で出発したが、現在は音楽を含む24のカテゴリーへと対象が拡がっている。
さまざまな部門のなかではまず、先のヴッチ氏も受賞した報道写真部門が有名だろう。例えば、ベトナム戦争時、ナパーム弾の爆撃から逃れるために泣きながら裸で逃げる少女の写真(1973年受賞)。撮ったのはベトナム系アメリカ人のフィン・コン・ウトである。いま見ても、胸の奥をえぐられるような痛みを覚える写真だ。この一枚が「ベトナム戦争」のすべてを語っているようにさえ思える。
日本のカメラマン沢田教一も、やはりベトナム戦争時に、小さな子どもを抱きながら川をわたって逃げる母親の姿を撮って、多くの人の心を揺さぶった(1965年受賞)。
次いで文学部門が有名だろうか。小説のオビに「ピューリッツァー賞受賞!」と麗々しく記してあるのを、誰もが一度はみかけたことがあるはずだ。
これまでの受賞者は(正確には授賞対象は人ではなく「作品」だけれど)、パール・バック、スタインベック、ヘミングウェイ、フォークナー、アップダイク、ノーマン・メイラー、トニ・モリスンという具合で、錚々たる名前が並んでいる。実際、今あげた名前の半数以上はノーベル文学賞受賞者でもある。
ジュンパ・ラヒリ『停電の夜に』(小川高義・訳)[新潮文庫]
近年の受賞作では、2004年に受賞したインド系アメリカ人、ジュンパ・ラヒリの短編集『停電の夜に』が、さりげない余韻を残す作品ばかりで面白い。
……と、もちろん本連載は文学エッセイではない。いよいよ本題の音楽部門へと、ずりずり転調――モデュレーション――していきたい。
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