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【特別寄稿】シューベルトソナタ録音3巻目にあたり
フォルテピアノ 矢野泰世

スイス在住の矢野泰世がシューベルトのピアノ・ソナタ全曲録音にじっくりと取り組んでいる。『レコード芸術』特選盤に選ばれた前2作に続く第3集発売に際して、録音の模様、シューベルトへの想い、録音に使った楽器のことなどを綴ってもらった。

シューベルト: ピアノ・ソナタ集 第3集――第4番、第13番、第17番

矢野泰世(フォルテピアノ)

録音:2022年11月21-23日

CD: IBS12025(輸入盤)

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今回の録音も、IBS Classicalの録音製作者パコ・モヤ氏(Mr. Paco Moya)、楽器のチューニング、メンテナンスをしてくださったポール・マクナルティ氏(Mr. Paul McNulty)の温かい支えあっての和やかな雰囲気の中、愉しく集中できたことに感謝しています。このお二人とは⻑期に渡ってお世話になり、私にとっては兄弟姉妹のような気持ちでいられる理想チーム。モヤ氏のハスキーな辛口の冗談とマクナルティ氏の甘い戯けた冗談のやりとりに溶けそうになるくらい力が抜ける時もあります。そこを左右されずにまっしぐらに音を紡いでいくのが私の役目です。

1.手前より矢野泰世、パコ・モヤ、ポール・マクナルティ

フォルテピアノはご存知の通り繊細な楽器、湿度や温度室内環境で調律が頻繁に要され、6つあるペダルがご機嫌斜めである時はキシキシと音が鳴ってしまったり。その度に録音が中断され、そこでマクナルティ氏の出番が来ます。打って変わって真剣な眼差しで素早い調律とキシキシと音を立てるペダルの原因を魔術師のように治してくれます。その間、仏像のような寛容な表情で我慢強くゆったり待ち続けるのがモヤ氏。毎度のことながら印象深い場面です。

2.楽器を調整するポール・マクナルティ

そもそもフォルテピアノによるシューベルトのソナタ集(完結されたと言われるソナタ 11 曲)を録音するなどという決断に至った経緯は相重なる思いがあります。「フランツ!」…そう呼んで忠誠な友でありたかったと思うくらい、シューベルトの人柄に惹きつけられずにはいられません。作曲家として素晴らしい才能があるにもかかわらず、謙虚で内気で欲のなかった故に一生質素な暮らし、殆どの時間は友人、知人、兄の家に居候をし、自身所有の楽器も兄のものだったのか。いわゆる彼の財産と言ったものは友であったのでしょう。優しい友に恵まれ、彼らに作曲ができる環境を整えてもらい厚い友情に満たされていたでしょう。その反面、もじもじと受け身で友人達のはからいを待っていただけではなく、文豪ゲーテにシューベルトはたくさんの歌曲譜を送っています。それに対し、ゲーテは手紙の返事もせずそっくりそのまま小包をウィーンに送り返したという記録が残っています。この二人は一生会わずに亡くなっています。若い頃からゲーテの詩を付けて70曲以上のリートを生み出していたシューベルトは、無視するかのような冷たいゲーテの反応に深く悲しい思いをしたでしょう。多々残るシューベルトの手紙やエピソードを読めば読むほど私の心にシューベルトの人柄に親しみが深まります。

3.シューベルトに向き合う筆者

ここでベートーヴェンと比較しては何ですが、ベートーヴェンの作品の殆どは偉人の誰かに献呈されています。国内や国外の皇帝達から伯爵、伯爵夫人。面識のなかった人達にも彼の作品を献呈しています。なかなかのビジネスマンです。ベートーヴェンだけではなく多くの作曲者がそのような手段で報酬をもらい生活の質と名声を高めてきたことは当たり前のことでしょうが、シューベルトの場合は明確に違います。殆どの彼の作品はどこにも誰にも献呈されていません。献呈されている作品を探してみれば、それは敬愛する友への心こもったささやかなプレゼントだったでしょう。富と名声に全く無関心でいた作曲家は他にいるでしょうか。

シューベルトの書く旋律は決して華麗とは言えないどこか素朴で寂しさや迷いを感じ、和音は絶望感や開放感の入り混じった心の彷徨いの響きを感じます。休符も安心感の間、茶化すような間、疑いや迷いの間でしたり、ショックで言葉が失われたような休符に着目しては彼の作品全てに感嘆させられます。若い時分は、シューベルトの作品は恐れ多くも弾けるはずがないと敬遠する気持ちが強く、歳を重ねて理解が深まった時点でいずれチャレンジしたいとそのようにうっすらと頭の隅にある待機状態でした。でもそのうっすらと思い浮かべていたものに背中を押してくれる出来事がありました。ここで、録音に使用しているクリストファー・クラーク氏(Christopher Clarke)の楽器との出会いをお話ししなくてはなりません。

4.録音に使われた楽器

クラーク氏にフォルテピアノを作っていただきたいとフランスのブルゴーニュ地方にある彼の工房を訪ねて行ったことがあります。訪ねる前から、注文しても楽器が完成するのは 10 年かかると言われるほど注文待ち状態だったのですが、ちょうど今から新しい楽器作りに取り掛かろうとされている楽器が彼の人生33番目の楽器であり、その注文された方がフォルテピアニスト、故小島芳子女史だったのです。クラーク氏は小島さんのために取り掛かるはずだった楽器注文の契約を私に譲り受けさせてくれました。

小島さんはクラーク氏の楽器でシューベルトをお弾きになりたくて、クラーク氏はそれならシューベルトが大歓喜するような楽器を作ろうではないか、ウィーン式ハンマーアクションで、コンラート・グラーフのモデルを緻密にコピーするのではなく、クラーク氏のアイデアもその中に取り入れた製作をという事におふたりで共鳴したそうです。

クラーク氏からお聞きしたこのエピソードは感慨深いものでした。このような思いがけない尊い機会を与えてもらったことに、私はあの時の身体の震えをまだ昨日のように覚えています。小島女史がクラーク氏と交わした契約通りの楽器で、彼女が弾きたかったシューベルトを、私がそのまま引き継ぐことが私にせめてできる小島女史への祈りと敬意かもしれません。

5.録音会場となった聖イダ教会 Römisch-Katholische Kirche St.Idda

さて、この3巻目の中のソナタ第17番 D850の終楽章のある一部分で、これまで使用していなかったペダルが初登場します。Bassonバスーン、或いはFagott-Zugファゴットと言われるペダルで、この楽器では膝レバーで操作します。このペダルの効果は低音域に限り、羊皮紙や絹紙を弦の上部を覆うことで蜂が飛ぶようなジー、ビューン、という音色が加わります。お聴き逃しなく。

矢野 泰世(フォルテピアノ奏者)

(写真提供 1,2,5:筆者、3,4:Paco Moya)

シューベルト: ピアノ・ソナタ集 第3集――第4番、第13番、第17番

矢野泰世(フォルテピアノ)

録音:2022年11月21-23日

CD: IBS12025(輸入盤)

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企画・制作:ナクソス・ジャパン

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