『レコード芸術ONLINE』の創刊にあたり、音楽評論家の片山杜秀氏にご寄稿をいただきました。読者として、執筆者として、長らく『レコード芸術』誌に関わってきた片山氏から見た『レコ芸』の栄枯盛衰と、新生『レコ芸ONLINE』の目指すべき方向について、丹念に考察していただきました。
『レコード芸術』黄金期を支えた盤石の批評システム
新たな旅立ち!『レコード芸術』が皆々様のご厚意とご寄附の御陰で再出発する。有難いことです。やはり『レコード芸術』がないと困りませんか。まず、何が発売されているのかがよく分からない。クラシック音楽のディスクの新譜情報をつかみきれない。だんだんやりきれなくなってくる。思わず溜息をつく。『レコード芸術』があれば、あちこちに散らばっている情報をすぐに掌の上に載せられるのに。天は我々を見放した! 最高の展望台を奪われてしまった!
もちろん、気ままに探し回っていれても、新譜の状況はそこそこ見えてはきます。へえ、こんなものが出たのか。では買うか買わないか、聴くべきか聴かざるべきか、あなたはすぐに判断がつきますか。知らない作曲家や演奏家。なじみのない時代や地域や様式の音楽。うーん、と首をかしげる。すると、試聴すれば分かるのか。いやいや、そもそも聴き方すら分からないこともありうる。クラシック音楽とはそれほど広大無辺。他のどんな音楽ジャンルよりも、何でもあり。鬼が出るか、蛇が出るか。しかし、鬼か蛇と思ったものが、よい批評の一言でひっくり返ることもある。そういう批評に出会いたい! そのとき白馬が神楽坂を駆け下りてくるのです。乗っている正義の味方は鞍馬天狗でも暴れん坊将軍でもない。『レコード芸術』の最新号なのです。子供は目を輝かせて訊ねます。「『レコ芸』のおじさん(いや、おじいさんかもしれません)、今月の特選盤は何?」
そう、雑誌『レコード芸術』の黄金時代を支えた一番の仕掛けは「特選盤」だったでしょう。LPレコードの時代、新録音の新譜は長いこと値が張っていました。新譜からどれを選択し、予算を集中するか。これが難しい。年季を積んだファンでも、けっこういつまでも難しい。他のどんな文化芸術に興味を持っても、個々人の時間と予算が有限であるかぎり、どの映画に、芝居に、展覧会に行くか、選択と集中の問題は必ずつきまといます。が、クラシック音楽はとりわけそうであると申すほかない。単行本が数百円、文庫本が二百何十円くらいが定価の時分に、LPレコードは1枚二千四百円とかした。買ってみたらつまらなかったではすみませんよ! そこで『レコード芸術』。実際、水戸黄門の印籠のような圧倒的迫力を『レコード芸術』は長らく保ち続けていたのです。なぜか。批評誌としての体裁が素晴らしかったからでしょう。交響曲や協奏曲や室内楽曲。しっかり部門分けし、一流の評者を各分野に複数置く。交響曲の月評子は交響曲の新譜を毎月すべて聴き続ける。最近のブルックナー演奏はよく聴いていなかったが、たまたまその月に出たブルックナーの交響曲の新譜批評が回ってきたので聴いたらよかった、悪かった、なんてことは、この仕組みの下では原則として起き得ません。交響曲の新譜をすべて聴き続けているのが交響曲の月評子なのですから。担当分野についてすべてお見通しとも言える大家が推薦するとなれば、かなりのものに違いない!
しかも、ひとりが推薦しても特選盤にはならないのです。ここがうまかった。『レコード芸術』は、新発売の新譜については複数の評者が批評するシステムを打ちたてました。ふたりともが推薦にしないと特選盤にはならない。芸術批評は経済統計の数字のようにはゆきません。必ず評者の価値観が入る。月評子がふたりいれば、好みもある程度は相異なると思わねばならない。そんなふたりが共に推薦するとなれば、えらいことです。外れではないという絶対のお墨付きを得たようなものです。
いや、実は『レコード芸術』は批評誌ばかりではなかった。その前提として情報誌でした。データ誌でした。しかもあまりに完璧な。ほぼすべての国内正規流通盤のデータが、まるで国家が戸籍を編纂するような厳格さで、集められ、載せられていた。新譜の曲目、演奏者、録音年月日、収録時間、プロデューサーやエンジニアやライナーノートの執筆者の名まで。そこに『レコード芸術』の真髄にして最大の信頼の源泉があったでしょう。批評すべき全対象が徹底して把握されているがゆえに、それらを批評して「特選盤」を定める行為にも、厳正なオーラが備わる。ここまでやりぬいた末に選んでいるなら本物だな。批評とデータが手を携え、互いの価値を高めあう。そのように歯車の回った時代が『レコード芸術』の黄金期だったのでしょう。
LPからCDへ。ピラミッド型の一元的価値構造の崩壊
完璧なカタログの編成。その上での選択と集中。毎月の特選盤の中から年末には「レコード・アカデミー賞」を選定して、さらなる選択と集中を推進する。まるでオリンピックか高校野球全国大会のようなピラミッドの頂点を目指す、クラシック音楽の音盤たちの闘技が毎年反復される。永遠に続くかのようにも思われた、この『レコード芸術』の権威の方程式が崩れ出す兆候は1980年代のうちにあらわれはじめたと思います。ひとつはLPからCDへと、聴取の媒体が転換していったこと。サイズや収録時間よりも材質や製造工程の変化が大きかったでしょう。多品種少量生産が可能になり、その分、内外で、低資本でも機動性のあるマイナー・レーベルがメジャー・レーベルに優るとも劣らぬ活動を繰り広げるようになりました。そこには、高度資本主義下における価値観の多様化とか「大衆から分衆へ」とかいった時代の様相が味方していたのです。それまでは、何が新しいか、主流か、最も優れているか、それを早く見つけてみんなが聴けばいいのだ、それは特選盤から見えてくるのだという物語で、この界隈はできていました。ところが、豊かさは達成され、上を目指して必死に選択して階段を上る時期はもう終わりという空気になった。誰もがおのれの好みの中で「おいしい生活」を送ればそれでよい、主流も傍流もあるもんか、みんな違ってみんないいという世の中に、移行していった。古楽から現代音楽まで、市場に供される楽曲のレパートリーや演奏のスタイルが細分化しながら爆裂しはじめて、それに見合った新しい音楽ファンを作り出していった。
そうなると、「名曲名盤」のヒエラルヒー、ピラミッド型の一元的価値構造、それまで当たり前だった価値判断の物差しは急激に壊れてゆくのです。たとえば、ピリオド・スタイルが出てきて、ノン・ヴィブラートでモーツァルトもベートーヴェンも演奏されるようになると、その最初の内は評論家が痩せぎすの響きでは巨匠の音楽の豊かな精神性は味わえないなどと論じ、それに共鳴するファン層も厚く存在したと記憶するのですが、結局、そうした価値観はモーツァルト等の時代の演奏様式から遠く離れた後世の粉飾にすっかり馴らされた耳が信じさせられていた幻影にすぎないということになり、かといって幻影を素敵と思う耳が排除されるわけではなく、カラヤン指揮でモーツァルトを聴いていても別に反時代的とされるわけではない、何でも聴けるのが当世だということで落着したのでしょう。カラヤンもいいけど、ホグウッドもね! そんな時代には本当のピラミッドは形成されはしないだろうし、万人の納得する特選盤も決めにくい。決めても説得力が昔ほどではない。1990年代、2000年代と、そうした分裂と多元化の波は高まっていく一方だったでしょう。そうなると時代精神の象徴という概念も成り立ちません。真の巨匠や真のスターも生まれにくくなります。
輸入盤の隆盛と「国内盤本位」体制の限界
『レコード芸術』の長く果てしない戦いの結末
それはつまり、選択と集中の原理が成り立ちにくくなることを意味しますが、そこに輸入盤の問題がしっかり組み合わさってきます。昔から『レコード芸術』は輸入盤についての情報や批評にも頁を割いていました。LP時代にもたくさんのマイナー・レーベルが海外で活動し、マニアはそれらを入手するのに工夫を凝らしていたものです。『レコード芸術』はその参考にもなっていました。それについては記事よりも、零細な輸入盤店の広告に載る入荷案内の方が、より役に立っていたかもしれませんけれど。が、1980年頃までは、クラシック音楽のディスクの市場も、市場で売り買いされる演奏家も作曲家も楽曲も、海外メジャー・レーベルの供給するものでほぼ充足していたと言え(価値観の多様化の時代にはまだ今一歩だったのですから)、海外メジャー・レーベルの推すディスクのかなりは日本でも国内盤として発売され、『レコード芸術』のデータベースに組み込まれ、カタログの完璧性は保たれているように見え、そこから選ばれる特選盤もひときわ輝いていたのです。
ところがCD時代になった。海外マイナー・レーベルが激増した。発売点数もうなぎ上りになった。そうそう、冷戦末期に米国経済がソ連より先につぶれないようにと、日本や西ドイツやイギリスやフランスはいわゆるプラザ合意をなして、自国通貨をドルに対してわざと高くする政策に踏み切った。激しく円高に振れて、海外旅行もですが、輸入盤がとても安くなりました。1990年代に入る頃には、クラシック音楽ファンのディスク購入に輸入盤の占める割合はとても大きくなっていたと思います。
国内盤でも買えるディスクを、輸入盤で日本語解説はなくてもいいからより安く買うこともあったでしょう。が、国内盤化されないたくさんの輸入盤に楽しみを求めるファンが、趣味の多様化と絡まりつつ増えていったのもまた大きな事実でしょう。けれど、そうした時代の急展開にもかかわらず、『レコード芸術』の完璧なカタログ作りとそこから行われる選択と集中は、基本的には国内盤を対象とし続ける大原則を崩さずに、その後も続いていきました。そこは構造的に変わりようがなかったとしか言いようがありません。とにかく、こうして、『レコード芸術』の提示する国内盤本位の「完璧なカタログ」と、リスナーの享受する、未国内盤化輸入盤の比率の高まってゆく「現実のカタログ」とのあいだに、年々、大きな乖離が生じていったのです。
そこをどこまで補正できるのか。際限なき試行錯誤。とてつもない苦労。それが雑誌『レコード芸術』の最後の長い戦いであったのではないでしょうか。物凄く健闘したと思うのです。私のような執筆者もそこを何とかできないかと1990年代から頁を与えられるようになったと思うのです。でも、無理筋なところがあったのかもしれません。そもそも『レコード芸術』は完璧なデータベースとそこからの選択と集中のシステムで成り立っていました。全部の国内盤の情報と批評をまめまめしく載せるのですから、それだけで莫大なエネルギーと予算と頁数を必要とします。ところが、多品種少量生産の海外マイナー・レーベルのディスクが日本のコアな音楽ファンの暮らしにどんどん入り込んでいった。無数の鼠があちこちを駆け回るように。完璧が売りの『レコード芸術』はそちら側の誌面も増やそうとする。でも輸入盤は際限なく増殖し、仮にいくら雑誌を厚くしても拾い上げるには限界がある。それにそういう品物のかなりは多品種少量生産時代にふさわしくほんの少しのマニアが買ってくれればそれで十分という趣旨のディスクなのですから、仮に誌面をとっても、喜ぶファンはそれぞれにほんの少しずつしかいない。輸入盤のレビューを幾ら増やして増頁したとしても読者はそう増えるわけではなさそうです。だいたい雑誌『レコード芸術』のかつての分厚さは国内レーベルの広告の御陰というところもあったでしょう。海外メジャー・レーベルも国内レーベルも海外マイナー・レーベルにある程度食われていって、広告を雑誌にたくさん出す余力がなくなり、かといって海外マイナー・レーベルが新しくメジャーになるほど儲かる世の中ではありません。紙の分厚い雑誌を保てる新しい回路は見えてこない。悲劇は運命づけられていたようにも思います。
新生『レコード芸術ONLINE』が目指すべき方向は?
そこで新しい『レコード芸術』が始まります。どんな方向を目指すべきでありましょう? 時代はすっかり変わりました。特選盤はこれだ、年間最優秀盤はこれだと、大見えを切る必要はあまり無いのではないかと思うのです。確かなのは、一元的なピラミッド型の構造には収まらない様々な音楽ファンが群雄割拠しているということです。それからいつの時代にも初心者が居てくれます。居てくれないと困ります。初心者は何かの伝手を求めてくれているはず。年季の入った音楽ファンでも、どんなディスクが出ているのか、あるいはディスクでなくても何が聴けるのか、とても分かりにくくなっている現実もありましょう。
でも、だからといって、かつてのように完璧なデータベースを構築し続けよと、新しい『レコード芸術』に求めるのは大変でしょう。輸入盤まで含めて、そんなことをやろうとしたら、とんでもないことになります。とはいえ、「とりあえずこのくらい知っていれば、とりこぼしはきっとあまりなくなりますよ」という程度の情報はぜひとも供してもらえたら、と思うのです。ゆるいかんじでいい。完璧主義はAIにでも任せましょう。レビューも、国内盤も輸入盤も全部と言うのは当然不可能です。でも、「こういう趣味の方はこの新譜を押さえておくといいですよ」というくらいで、大事なつもりのものを一通り押さえることは、趣味のよい批評家が揃えば、そんなに膨大なレビューの本数を並べずとも、できるはず。『レコード芸術』をチェックしていれば、けっこう満遍なく、それぞれの趣味に適うものが見えてくる、聴こえてくる。そんなふうになればいいと思うのです。円安で輸入盤もまるで1970年代が帰ってきたのかと思えるほど高くなりましたから、選択と集中も改めて大事でしょう。お買い物のナビはやっぱり必要です。
ゆるく長く淡白に、でも情報は少しでも多いくらいのつもりで、時には濃密に欲深い感じで、ずっと続いてゆきますように。