第1回バイロイト音楽祭でワーグナー畢生の大作《ニーベルングの指環》が初めて通し上演されたのが1876年。それから150年に注目の全曲録音が登場する。オペラハウスに所属しないアメリカの交響楽団が《指環》全曲をリリースするのは史上初、それもいわゆるビッグ・ファイヴではない楽団というのは意外に映るかもしれないが、2020年から音楽監督を務めるファビオ・ルイージの下、ダラス交響楽団が創設125年周年の節目に向けて取り組んだ事業であり、大編成録音を得意としてグラミー賞に6度輝くダーク・ソボトカをプロデュースに迎えた録音は見事な出来栄えとなっている。発売に先立って広瀬大介氏の試聴記を掲載する。

ワーグナー:楽劇《ニーベルングの指環》全曲
ファビオ・ルイージ指揮ダラス交響楽団,同合唱団,ダニエル・ヨハンソン(T:ジークフリート)リーゼ・リンドストローム(S:ブリュンヒルデ)マーク・デラヴァン(Bs-Br:ヴォータン)他
〈録音:2024年5月,10月(L)〉
[Delos(D)DE3624(13枚組,海外盤)]
【試聴・購入はこちら】
2026年5月22日発売予定
Text: 広瀬大介(音楽学・音楽評論)
2026年で初演から150年を迎えるワーグナー《ニーベルングの指環》については、この世に発売されているほぼすべての録音と映像に触れてきた(とおもう)。人生の全時間の数%をワーグナー、あるいは《リング》を聴くことに費やしてきたといっても、決して過言ではないだろう。それでも、その規模のあまりの大きさゆえに、その全貌をいまもって把握しきったとはお世辞にも言えないし、残りの人生で、その全貌にどこまで迫れるかもおぼつかない。それでも、せっかくここまで来たならば、可能な限り、人類がどこまでこの大作に挑戦し続けられるのか、その行く末を見届けたいとおもっている。

近年では歌劇場でのライヴ収録、それも映像に主眼が移り、かつて数多く発売されていた音声だけの全集はめずらしくなってしまった。今回、その音声だけの全集が、おもわぬところから登場するときいて、心躍らずにはいられない。すでにメトロポリタン歌劇場の映像で、病気のジェームズ・レヴァインに代わって《ジークフリート》《神々のたそがれ》2作を指揮し、グラミー賞まで獲った指揮者ファビオ・ルイージ。そんなルイージにとって、《ラインの黄金》《ワルキューレ》を含めた《ニーベルングの指環》全曲の録音は悲願だったに違いない。ダラス交響楽団にとっても、この録音はきっと輝くべき栄誉となるだろう。2024年に実施したこの演奏会形式ライヴ録音をもって、はじめて《リング》を全曲録音したアメリカの交響楽団、という記念碑を手に入れることができたのだから。

ここではやはり、当のファビオ・ルイージの言葉をかいつまんで紹介しておくべきだろう。いわく、《ニーベルングの指環》は、これまでに作曲された音楽作品の中でも、もっとも深遠かつ複雑なもののひとつである。人間的なるものすべてが舞台に昇華されており、物語全体が美しい音楽と美しい台詞に導かれ、それを聴いたひとは最後に自身が変容を遂げることになる。この音楽は、技術、感情、精神、演奏者にすべてを要求するものである。自分にとっても、大きく人生を変えるような体験だった、と。

この録音においては、四部作をつうじて登場する主要キャストは、それぞれひとりの歌手が通して担当している(その手法を理想とするバイロイト音楽祭のやりかたでもある)。アメリカにおけるベテランのバリトン歌手、マーク・デラヴァンがヴォータン役を歌っており、ヨーロッパ、日本においてもさほど知名度が高くないと思われるこの歌手の実力が世に知れ渡るきっかけとなるはず。ジークフリート役を歌うのは、スウェーデン出身のダニエル・ヨハンソン。近年ではこの難役を驚くべきパワーとともに歌いこなすテノール歌手が数多く誕生しているが、その若々しい声は物語後半の主役として新しい魅力を録音にもたらしている。バイロイトをはじめとする世界各地で活躍するベテラン勢には、アルベリヒ役のトマス・トマソン、ブリュンヒルデ役のリーゼ・リンドストローム、ジークムント役のクリストファー・ヴェントリスなどが参加。この録音に向けて、水も漏らさぬ万全のキャストを揃えて臨んだ制作陣の意気込みが結実している。

まずは14時間以上をかけてひととおり聴き終えたが、原稿を書きながらもう2周目に突入している。この物語に初めて触れたとおぼしきダラスの聴衆の拍手と熱気もともに収録されたこの音源を聴いて、筆者もこの作品をはじめて聴いたときの興奮をあらたに思い返すことができている。この2周目を聴き終えるあと10時間ほど、ほかの仕事を脇において、筆者の人生の時間はワーグナーに、この記念碑的な《指環》に費やされることになるだろう。ルイージに、歌手たちに、そしてこの録音を送り届けてくれたすべてのひとに感謝しつつ。
企画・制作:ナクソス・ジャパン
