特別インタビュー特別企画
ブリュノ・モンサンジョン 特別インタビュー

モンサンジョンから見たダヴィド・オイストラフ

オイストラフの幼少期
ウクライナ、オデーサ音楽院の生徒たち。一番左がダヴィド・オイストラフ

インタビュー・文 = 船越清佳(ピアニスト/音楽ライター)

ソ連の巨匠ダヴィド・オイストラフの没後50年を機に発売となった61枚組(58CD +3DVD)のボックスには、今回世界初出となる多くの音源が含まれている。これは1970年代よりオイストラフに関する史料を探索し続けた映像作家ブリュノ・モンサンジョンの収集から成り、そのCD枚数は31枚にのぼる。ドキュメンタリー映画『ダヴィド・オイストラフ/人民の芸術家?(太陽への窓)』の監督として知られる彼が、この至宝を手にするまでの冒険を語った。

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【CD+DVD BOX】
オイストラフ・ワーナー・リマスタード・エディション(Columbia & HMV全レコーディング)

ダヴィド・オイストラフ(vn) ブリュノ・モンサンジョン(映像監督)他
〈録音:1932年~1972年(一部L)〉
[Warner Classics(M/S)5419796352(58枚組+3DVD,海外盤)]

忘れられていた豊饒な録音群

───モンサンジョンさんが13歳のころ、パリでダヴィド・オイストラフの演奏会を聴き、その翌日からロシア語を学び始めたと以前おっしゃっていたのを憶えています。

ブリュノ・モンサンジョン(以下BM) 私は子どもの頃からオイストラフに夢中でした。レコードはすり減ってしまうほどに繰り返して聴いたものです。

 オイストラフは、私にロシア語への情熱をもたらした存在でもあります。楽屋に面会に行った少年の私は、英語で話しかけたのですが、彼はロシア語と少しのドイツ語しか話さなかったので、ほとんど会話は成り立ちませんでした。そのときに「私と話をしたければ、ロシア語を学んでくださいね」と言われたのですから!

モンサンジョン
モンサンジョン © 船越清佳

 オイストラフへの愛が高じるあまり、私がモスクワで彼に関する史料を探索・収集し始めたのは1979年のことです(後年、この探索は世界中に及ぶこととなります)。当初は映画制作の見通しもなく、またソ連では、あらゆる機関が拒絶的な態度をあらわにしている時期でした。

 単独で迷路に入り込んだような探索において、ロジェストヴェンスキー/ポストニコワ夫妻の助けは貴重でした。彼らのお陰で、この堅く閉ざされたシステムに少しずつ浸透することができたのです。手がかりを与えてくれそうな人物に会えば、少しドルをつかませウォッカを一杯奢り……ということを繰り返しつつ、決定的な進展はないままに何年もが過ぎ、私は希望を失いかけていました。

 しかし1990年代に入り、パリのプロダクション〈イデアル・オーディアンス〉のサポートを得て、オイストラフをテーマとした映画制作(『ダヴィド・オイストラフ/人民の芸術家?(太陽への窓)』)の企画が具体的になったことで、ソ連(崩壊期)テレビ局、放送局の対応にも変化が見られるようになったのです。

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